1961年に羽仁進監督の映画『不良少年』を観ていたせいか、少年鑑別所行きの護送車の窓外に流れる街並みが恨めしそうな主人公のひねた目線がよみがえって、ジェリーを思い出したことを覚えている。ただ悲しい不良少年のイメージはぼくら団塊の世代にとってヒーローのように映っていた。中学に入ると色褪せたGパン(当時はジーンズなんて言わなかった)を上野のアメ横で買い求めてイキがって履きはじめ、ジャズ喫茶の池袋「ドラム」や銀座の「ACB(アシベ)」なんかに出入りするようになると、いっぱしのジェリーのように愚連隊っぽくなって意気揚々だった。芸能界デビューしてからも喧嘩が強く悪役のイメージを拭うこともなかったジェリー藤尾は憧れの的だったのである。
それがあろうことか、すでにスターの階段を登り始めた彼に、刃傷沙汰の事件が相次いだ。
事件をウキペディアはこう書いている。1962年、港区・麻布で仲間と飲酒中に面識のないヤクザ(後に自首し逮捕)に連れ出されてナイフで切りつけられ、目の上と首に全治2週間の傷を負う。この傷はのちにも残ったが、ジェリーも素手で反撃して相手に全治10日間の怪我を負わせたため書類送検されている。また、ジャズ喫茶の帰り道に3人のヤクザに絡まれ、相手の肋骨3本と前歯4本をへし折って返り討ちにする。直後、現場にパトカーが駆けつけ、過剰防衛の容疑で逮捕されてしまった、という逸話もある。
現代の芸能界ならとっくにお払い箱のような話だが、憧れのジェリーの蛮勇はわが団塊の不良少年たちにとって溜飲が下がる出来事だった。しばらくして歌手の渡辺友子と結婚しオシドリ夫婦となって幸せな芸能人一家と伝えられるようになったころは、暴力的な荒ぶる魅力は失われ、ぼくはファンとしてすっかり遠ざかった。
「遠くへ行きたい」はエンターテイナー・ジェリー藤尾の代表作といわれる。のちにNTVで同じタイトルの旅番組が始まっていて多くの歌い手によるカバーで主題歌が流れたが、ジェリー藤尾は一度も歌っていない。今になって振り返るとジェリーにとって遠くへ行きたいは、「旅」ではなかった。実母の死、混血への差別など心の闇から脱したかったのではないか。あの不良っぽい感性に「遠くへ行きたい」と歌わせ悲しい魅力を引き出した、作詞家・永六輔、作曲・中村八大の慧眼をあらためて思う。
文:村澤 次郎