23.06.16 update

「テーラー」で、服を仕立てるのが普通だった時代

オーダーメイドの紳士服テーラーといえば、銀座のような大都会にある店をイメージするが、実は、地方の町にも、ごく普通にテーラーはあった。
夫婦2人で営んでいるような小さなテーラーだ。
背広をあつらえるのは、オーダーメイドが田舎町でも、ごく当たり前だったのだろう。
男にとって背広を作るのは、おそらく一生に一度の大イベント。
ボーナスが出たら背広を作ろう、と意気込む若いサラリーマンも多かった。
身体の寸法を測られ、生地を選び、自分だけの一着が仕立てられる。
背広を着るのは大人の証、社会に出る儀式だった。
背広という言葉も死語になりつつあり、就職活動のための〝リクルートスーツ〟を吊るしで買う今、紳士の装いという価値観も〝今は昔〟なのだろうか。


紳士服はオーダーメイドが普通だった

~社会に出る男の大切な儀式~


文=川本三郎

「昭和の風景 昭和の町」 2019年4月1日号


社会人になる最初の支度はテーラーで背広を仕立てること

 既製服全盛の時代になってしまったが、昭和三十年代くらいまでは、たいていの町には男性用の「テーラー」「洋服店」があり、そこで服を仕立ててもらうのが普通だった。紳士服はオーダーメイドの時代だった。
 値段が張るからそういつも作れるわけではない。学校を卒業して社会人になった時のような特別な時にあつらえる。それを大事に着る。いわば一生ものだった。
 小津安二郎監督の昭和三十一年の作品『早春』では池部良演じる主人公は丸ビルのなかにある耐火煉瓦会社に勤めるサラリーマン。ある時、同僚(増田順二)が病気になり、家に見舞いに行く。
 同僚は寝ながら、元気だった日々を思い出し、丸ビルでの会社員生活を懐しむ。
「秋田県の中学生だった時、修学旅行で東京に出て来て、はじめて丸ビルを見た時のことは忘れられない。夕方、灯りがともってまるで外国のようだった。丸ビルは憧れだった。そこの会社に就職が決まった時は本当にうれしかった」。
 そのあと彼は、こう続ける。「うれしくてすぐに神田に洋服を作りにいった」。
 憧れの丸ビルのなかにある会社に就職が決まる。晴れがましい気持で、まずすることは社会人の証しである洋服を作ることだった。「テーラー」が大事にされていた時代だったことが分かる。
 小津安二郎監督の昭和四年の作品(サイレント)『大学は出たけれど』は、昭和の不況時代、大学生の就職難を描き、題名は流行語にもなった。
 この映画、現在、フィルムがわずかしか残されておらず、資料で見るしかないのだが、冒頭、こんな場面で始まっている。
 大学を卒業し、就職活動を始めようとする青年(高田稔)は、いまふうにいえば、会社訪問をすることになる。
 そこでまずすることは──、下宿の部屋に洋服屋に来てもらい、寸法を測ってもらう。就職活動に備え、背広を新調することにしている。昭和のはじめ、大学を卒業し、社会に出ようとする者にとっては、注文服を作ることは大事な儀式だった。

岡山市にある「服匠 深井」は、現在の店主・深井豊久の祖父豊次が、神戸で洋服
仕立ての修業を積んだ後、大正3 年に岡山初のフルオーダーメイド紳士服専門店「深
井洋服店」を創業したことに始まる。フルオーダーメイドの世界では、根底にある思想により仕事の精度に違いが如実に出ることを、祖父、父・南から学んだ三代目。型紙作り、裁断にも精度をあげることに日々努めている。写真提供:服匠 深井


洋服のオーダーメイドは紳士服から始まった


 洋服はいうまでもなく明治の文明開化の時代に始まった。横浜の居留地に住むイギリス人が「テーラー」を始め、そこで修業した職人たちがやがて自分の「洋服店」を持つようになった。
 男性のあいだでまず普及していった。とくに大正十二年の関東大震災のあと、活動的な洋服の需要が増えた。考現学(社会観察学)で知られる今和次郎は、震災後の大正十四年に銀座を歩く人間の服装を調査した。
 男性 和服33% 洋服67%
女性 和服99% 洋服1%
 男性は三分の二が洋服になっている。対して女性は極端に低い。個人的なことになるが、私の小学生時代(昭和二十年代)の小学校の遠足の写真を見ると付添いの母親は大半がまだ和服。明治生まれ、大正生まれの母親が多かったから当然だろう。

 昭和五年神戸生まれの美術家、妹尾河童の自伝的小説『少年H』(講談社、一九九七年)では、少年の父親は、戦前、神戸の鷹取駅の近くで「高級紳士服仕立 妹尾洋服店」を営んでいる。
 父親は十五歳の時に、広島の農村から神戸に出てきて、洋服店で修業した。郷里を出た大正七年当時は、都市部でもほとんどの人がまだ着物に下駄だった。そんな時代に十五歳の少年は「いまに必ず日本中の人が、みんな洋服を着る時代になる」と思い、神戸に出て洋服店で修業した。先見の明がある。
 ちなみに神戸は幕末に西洋への窓口として開かれた港町だったからハイカラで、洋服発祥の地とされている。
 修業の甲斐あって少年Hの父親は独立して自分の店を持つ。神戸は外国人が多いから顧客も増え店は順調に営まれてゆく。
 しかし、軍国主義の時代になると、「洋服店」は苦境に陥る。昭和十三年に「大日本帝国国民服令」という法律が出来、日本人は西洋の真似をした洋服を廃し、「国民服」と呼ばれるカーキ色の軍服のような服を着ることが奨励される。その結果、少年の父親の店は、店を閉じざるを得ない。戦争の時代の悲劇である。
 神戸が空襲に遭った時、少年は父親が大事にしていたミシンをなんとか助け出す。焼けこげてしまったが、父親は戦後、そのミシンを修理し、再び「テーラー」を始める。平和は、洋服の復活と共にある。女性服の世界では、戦後、空前の「洋服ブーム」が来る。自分の服は自分で作る。いまの既製服の時代とは正反対の自前の時代である。

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