今、風呂敷が一部の人たちの間で結構見直されていると聞く。
若い世代、さらに外国の人たちからも〝お洒落〟と評価されるといい気分になる。
昭和では、重宝な日用品だとされた風呂敷が、今は、ファッションというくくりで語られている。衣類はもちろんのこと、本や酒瓶やすいかまで、持ち歩くことが楽しくなる包み方が提案されていたりもする。包むものの大小、形状にとらわれることなく変幻自在に包むことができる一枚の布。すばらしく便利な日用品でありながら包む、ほどくという日本的な美のシーンを見せる風呂敷。
美しい日本の情景の中で欠かせない小道具だった風呂敷の昭和の景色を、今一度思い出してみよう。
風呂敷は暮しの味方だった
日本人の知恵が生んだ逸品
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2019年10月1日号より
日常生活に欠かせない重宝な風呂敷
バッグの普及で近年はあまり見かけなくなってしまったが、昭和の暮しには、風呂敷が欠かせなかった。
たった一枚の布でさまざまなものを包める。本、書類、酒瓶、教科書、弁当、銭湯に行く時の洗面道具、天地無用のケーキや人形、寿司の折詰、着物、結婚式の引出物……挙げてゆくと切りがない。
軽くて折り畳みの出来る風呂敷は持ち運びも便利だし、使い終ったら元の一枚の布に戻せる。日本人の暮しの知恵だった。
昭和二十七年公開の家庭劇の秀作、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』には、さまざまな風呂敷が描かれていて、昭和のこの時代まで風呂敷が庶民の暮しに欠かせないものだったことがよくわかる。
一家は東京の蒲田あたりでクリーニング店を営んでいる。母親は田中絹代、父親は三島雅夫。長男の片山明彦は肺を病んで療養所に入っている。ある時、母親の顔が見たくて家に戻ってくる。庭先に恥しそうに現れた長男は手に大きな風呂敷包みを持っている。入院中の服や日用品を入れているらしい。
父親が病死する。通いの職人、加東大介が手助けに来る。彼は小さな風呂敷を持っている。昼の弁当が入っているのだろう。
ある時、客の帽子を染めるのに失敗して弁償することになる。当座のお金を作るため、母親は娘の着物などを質に入れることにする。箪笥から着物を出して風呂敷で包む。
日常生活の随所で風呂敷が使われている。
着物にはやはり風呂敷が似合う
昭和戦前、小豆島の先生を主人公にした壺井栄原作、木下惠介監督の『二十四の瞳』(54年)を見ると、昭和はじめの島の子供たちの大半は、学校に行く時に風呂敷包みを持っている。
まだランドセルが普及する前のこと。教科書や筆記用具、そして弁当を風呂敷に包んでいる。この時代、子供たちは着物だから風呂敷がよく似合っている。
明治生まれの作家、井伏鱒二は「ふろしき」という随筆(昭和三十三年)で、子供のころ、教科書や筆筒を入れた風呂敷を右肩から左脇に背負って学校に通っていたという。「駆けだすと、筆筒の中の石筆が愉快そうにがらがらと音をたてた」。明治末のころの広島県の村のこと。『二十四の瞳』を見ると、昭和のはじめになっても、明治の子どもと同じようにまだ風呂敷が子供たちに愛用されていたことが分かる。
井伏鱒二は昭和三十年ころ、友人の娘の結婚の祝いに「寿の字」を入れた風呂敷を贈ろうとする。いい贈り物だと思って、注文すると「井伏」の「伏」の字が「イ太」に間違っていて、使いものにならなかったという。それでも、昭和三十年ごろまでは、風呂敷を結婚の祝い物として贈っていたことがうか
がえる。現代ではどうか。