時代が昭和から平成に変わっても、修学旅行は学校時代の最高の楽しみ、最大のイベントだろう。ただ、旅行先が海外であったり、スキー旅行だったりとスタイルはずいぶんと様変わりしているようである。それでも、浅草や原宿あたりは今でも修学旅行生たちでにぎわっている。昭和50年代頃には、テレビの公開人気歌番組の観覧というのも大好きなアイドル歌手たちに会えるということで、人気だった。修学旅行のお供には旅の栞や歌集などがつきもので汽車やバスの中は明るく弾んだ歌声が響いた。昭和38年に詰襟姿の舟木一夫が歌ってヒットした「修学旅行」は昭和の修学旅行愛唱歌の定番だったが、今はどんな歌が合唱されているのだろう。バスガイドのお姉さんへの淡い憧れ、宿での枕投げ、修学旅行の思い出はつきない。
学校時代の最高の思い出、修学旅行
~汽車やバス、宿での時間も楽しかった幸せな記憶~
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2015年4月1日号より
『二十四の瞳』に描かれた修学旅行の楽しさと悲しさ
まだ旅行が一般的ではなかった時代、子供にとって大きな楽しみだったのは、遠足とそして修学旅行だった。
修学旅行は泊りがけだから、小学校の高学年や、中学、高校になってはじめてゆくことが出来る。
明治のなかごろに教員を養成するための師範学校が始まった。当初は、軍隊の行軍に倣った鍛練の性格が強かったが、次第に見聞を深めるための旅行へと変わっていった。
大正から昭和にかけて、全国の学校に広まっていった。小学生も出かけるようになる。
壺井栄原作、木下惠介監督の『二十四の瞳』(54年)は、小豆島の小学校(分校)の大石先生(高峰秀子)と十二人の生徒の物語だが、この映画のなかに修学旅行の場面がある。
六年生の秋、子供たちが先生に引率されて修学旅行に行く。昭和十年頃。
小豆島から船で四国に渡り、金毘羅宮、屋島、高松の栗林(りつりん)公園と巡る。船の中では、〽金毘羅、船、船……と歌を歌う。男の子は学生服、女の子はセーラー服。この日のために新しく靴を買ってもらった子供もいる。
この時代、小学校を出ると働きに出る子供が多かったから、修学旅行は子供時代の最後のいい思い出になった。
壺井栄の原作を読むと、例年だとお伊勢参りをするのだが、満州事変(昭和六年)、上海事変(昭和七年)と次第に戦時色が強まってきている時節柄、近くの金毘羅宮に決まった、とある。四国の名所である。
村の小学校に通う子供たちの家は貧しい。八十人いる生徒のうち、修学旅行に行けたのは六割だった。それも、一泊旅行ではなく、朝、船で出て、晩の船で戻るという日帰りの強行軍。弁当を三食持ってゆく。
途中、大石先生は、高松のうどん屋で、家が貧しく、小学校を途中で辞めて働きに出た教え子の女の子に会い、心を痛める。
この子供が、修学旅行を楽しんでいる同級生たちを乗せた船を遠くから一人、見送り、泣き崩れる姿は悲しい。
女学生のお目当てはデパートでの時間
それに比べると、ミッションスクールに通う女学生たちは恵まれている。
昭和十二年(1937)に出版されて大ベストセラーになった石坂洋次郎の『若い人』は、函館のミッションスクールを舞台にしている。
この私立の女学校では、五年生(現在の高校二年生)の秋、毎年、修学旅行が行なわれる。
函館から、東京、鎌倉、名古屋、京都、大阪、伊勢とまわる。飛行機のない時代、八日間の大旅行になる。
東京に着くと十三台もの「遊覧自動車」で市内見学に出発する。まず行くのが皇居というのが、この時代らしい。
さらに靖国神社、明治神宮、乃木大将邸、泉岳寺と巡る。固いところばかりでさすがに女学生には疲れる。
ようやくお目当ての、日本橋の三越デパートにたどり着いて元気が出る。四十五分の「自由散策」を許されて、女学生たちは大喜びでデパートのなかへ入ってゆく。
やはり女学生には神社やお寺より、デパートのほうが楽しい。