町に洋服店があったころ
昭和の風景 昭和の町 2015年1月1日号より
大きな作業台で気難しげに洋服を仕立てる職人然とした主人。傍らでは奥さんらしき女性がミシンを踏んでいる。町の小さな洋服店の多くは、夫婦二人で営んでいたようだ。昭和の子供たちの服は、母親の手作りによるものが少なくなかった。母親がミシンを踏む姿は、あちこちの家庭で見られた日常の風景だった。若い女性たちはモード雑誌を見ながら、服作りを楽しむ。作家で脚本家の向田邦子さんも、漫画家の長谷川町子さんも服作りを楽しんだ、昭和の女性である。雑誌「ひまわり」や「それいゆ」を作った中原淳一さんの「スタイルブック」には型紙と縫い方が専門家の手で紹介されており、婦人雑誌にも、型紙の付録がつけられていた。ミシンも電動のものになり、さらに既製服が当り前の時代になって家庭で服を作る女性たちも少なくなった。ミシンを踏む女性たちの姿は、懐かしい昭和の風景の中に仕舞われることになっていった。
文=川本三郎
昭和も三十年代ころまで、町には洋服店(テイラー)があってガラス越しに主人がミシンを踏む姿が見えたものだった。
しかし、その後、既製服の時代になってしまい、町の洋服店が消えていった。同時にミシンもあまり見かけなくなった。いま家庭でミシンはどれだけ使われているだろう。
昭和の町には洋服店があった
妹尾河童原作、降旗康男監督の『少年H』(13年)は、戦前昭和期の家族の物語。父親(水谷豊)は神戸の町で洋服店を営んでいる。看板には「高級紳士服仕立 妹尾洋服店」とある。瓦屋根の二階家、和風の家で洋服を作る。いわば和洋折衷。
昭和の町にはこういう洋服店(仕立屋ともいった)が必ず一軒はあった。オーダーメイドの洋服が当り前だった時代である。ハイカラな神戸の町にはとくに多かっただろう。
父親はミシンを踏んで洋服を仕立てる。
ミシンが一家を支えている。だから昭和二十年、神戸の町が空襲に遭い、家が焼けた時、父親のミシンを守ろうと、少年と母親(伊藤蘭)は燃えさかる家のなかから必死になってミシンを運び出す。
戦後、父親はそのミシンを丁寧に修理し、バラックで再び仕事を始める。この昭和の一家の暮しはミシンと共にある。
アンドルー・ゴードン『ミシンと日本の近代 消費者の創造』(大島かおり訳、みすず書房、13年)によれば、アメリカの世界的ミシン・メーカー、シンガーミシン社が日本に進出したのは、明治三十三年(1900)。それから約二十年後の大正なかごろには、年に五万台も売り上げていたという。一台の値段はサラリーマンの二ヶ月ぶんの給料に相当したから、まだまだ一般家庭には贅沢品だった。
はじめに購入したのは『少年H』の父親のように洋服店だったろう。
徳田秋声原作、成瀬巳喜男監督の『あらくれ』(57年)は、高峰秀子演じるお島という気性の激しい女性の物語。
お島は男で苦労し続けるが、洋服職人(加東大介)と知り合ってからは落着き、二人で小さな洋服店を開く。まずミシンを買い、自分でもミシンを踏んで洋服を作る。時代は大正時代。ちょうど日本に進出したシンガーミシン社が売り上げを伸ばしていたころと重なっている。
個人の家でミシンを買えたのは、裕福で進取の気風のあった中産階級だろう。『ノンちゃん雲に乗る』で知られる児童文学者の石井桃子(明治四十年生まれ)の家は、父親が浦和の銀行員で新しもの好きだったので、シンガーミシンが売りに出されると早速これを買った。
尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社、14年)によれば、石井家は娘が五人もいたのでその洋服を作るという実際的な意味もあったという。
当時はミシンを買うと半年ほど、洋裁の指導の女性が家に来て、ミシンを使っての洋裁を教えてくれた。シンガーミシンが売り上げを伸ばしたのは、このサービスがあったからかもしれない。