すくなくとも、昭和40年代の前半くらいまでは子供たちの弁当箱の主流はアルマイトではなかったか。プラスチック製が台頭するのは昭和50年代半ば頃からではないだろうか。アルミやアルマイトの弁当箱は新聞紙に包んで持たされることも多かった。角型にも、楕円の丸型にも御飯とおかずを入れる仕切り板がついているのもありあるいは、両サイドのローラーでパチンと留めるおかず入れもついていた。冬場になると、教室のスチームで弁当箱をあたためるのだが、おかずの内容によっては、授業中の教室に匂いがただよったりもした。弁当箱の蓋では、配られるお茶を飲んだ。懐かしい風景であるが、実は近年、アルマイトの弁当箱が見直されているときく。軽くて丈夫、熱に強く、熱伝導率はステンレスの15倍だとか。もっとも、花柄に代わってアニメや漫画のキャラクターが描かれているものが人気だ。子供はもちろん、大人でも、いくつになっても弁当の時間は楽しい。
アルマイトの弁当箱が欲しかった
蓋の花鳥の絵柄が子供に大人気だった
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2015年10月1日号より
昼食前に弁当箱を教室のスチームであたためる
弁当箱と言えばアルミニウム製だった時代があった。
大正十二年(1923)東京生まれの作家、池波正太郎は、小学生の頃の思い出を書いたエッセイ「弁当」のなかでアルミの弁当箱について触れている。
昭和のはじめ、東京の小学校にはスチームが入っていた。家庭ではまだ火鉢と炬燵だけが暖房だった時代に、教室にはスチームがあったのだから、子供たちは幸せだった。
このスチームを子供たちは、弁当をあたためるために使った。
「昼食の一時間ほど前に、アルミニウムの弁当箱の御飯の下へ水を入れ、これをスチームの上に乗せておくと、昼休みに、ちょうど御飯が熱くなってくる。その旨さは格別のものだった」
弁当箱をスチームの上に乗せておいてあたためる。これはアルミの弁当箱だから出来た。
池波少年はさらに凝ったことをする。スチームで蒸しあげる弁当の場合、御飯とおかずを一緒にすると、御飯に味がついてしまう。
「そこで私は御菜入れのアルミニウムの箱を自分の小遣いで買って来て、『御菜は、ここに入れてくれ』と、母にいった」
のちに、食の作家として知られる人だけに、子供の頃から、食べることに気を遣っている。
「アルミニウムの弁当箱」と「御菜入れのアルミニウムの箱」。昭和のはじめ、アルミの弁当箱が普及していっていることが分かる。
昭和六年(1931)東京生まれの映画評論家、秦早穂子は回想記『影の部分』(リトルモア、12年)のなかで、昭和のはじめ、小学校の頃の弁当の思い出を書いている。
「弁当箱の品質も、中身のおかずも、家庭によって全く違う。海苔とかつぶしの生徒もいたし、なぜか毎日、〝イクラ〟がおかずの地主の子もいた。そのころ流行りだした、左右に留め金のついたおかず入れを持ってくる生徒もいた」「左右に留め金のついたおかず入れ」は、池波正太郎の言う「御菜入れのアルミニウムの箱」と同じだろう。
これは、昭和三十年代、私の学生時代にもあった。懐かしい。そう言えば、われわれも、池波少年と同じように、冬になるとアルミの弁当箱をスチームの上に置いたものだった。
昭和三十年代の生活風俗は、昭和戦前期から続いているものが多い。