娯楽の少ない時代、町に縁日が立つ日は朝から気持が浮き立ったものだ。子供たちは学校がひけると小遣いをもらって友だちと昼間の露店に繰り出し、何を買うか真剣に思案する。夜になると、晩ごはんを早仕舞いし、家族と一緒に夜店を見て歩く。親が一緒なので、予算も心配ない。
銀座あたりのバーで飲んだ帰りに夫たちは、奥方のご機嫌うかがいの土産にと、夜店でバッグや靴やアクセサリーなどを買ったと聞く。町に屋台なども少なくなり、夜店もまた消えて久しい町の文化の一つであった。
夜店、縁日が町をにぎわす
~夜店のひやかしが楽しかった夜の銀ぶら~
文:川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2017年 7月1日号より
戦前の銀座に並んだ風流な夜店
現在の銀座からは想像がつかないが、昭和戦前期の銀座には夜店(露店)がずらりと並んだ。大正十二年(1923)の関東大震災のあと、銀座は鉄筋コンクリートの建物が並ぶモダン都市として復興、変貌していったが、その新しい銀座を支えていたのは、意外にも夜店だった。
とりわけ、松屋、三越、松坂屋のデパートが並ぶ東側に集中した。店舗が店閉まいしてから夜店が店を開ける。
当時の銀座の様子を語った安藤更生の名著『銀座細見』(昭和六年、春陽堂)には、銀座のにぎわいについて、こうある。
「夜店といえば、どこのも何となくうらぶれた、淋しい思いを起こさせるものだが、銀座の夜店には全くそういうところがない。明るく快活で、手ごろで、そしてよい品物が安く買える。店々にネオンサインが点(とも)り、大きなゼネラルモオタアスのイリュミナシオンが一斉に輝(かがや)き初(はじ)める夕方の六時ごろから、そこには思い出の店が開かれる」
夜店といっても、決していい加減なものを売る安直な店ではなく、玩具、古本、骨董などきちんとしたものを並べていた。だから、安藤更生は、「これは一つの立派なデパート」だと賞賛する。
大正時代に始まり、昭和になって盛んになった「銀ぶら」には、昼の銀座を歩くことだけではなく、この明るい夜店が並ぶ夜の銀座を歩く楽しみも入っていた。
大正九年(1920)に銀座に生まれた、元朝日新聞記者、水原孝は回想記『私の銀座昭和史 帝都モダン銀座から世界の銀座へ』(昭和六十三年、泰流社)のなかで、「私などは子供のころから家の者と銀ブラをしながら、夜店を見て歩くのが楽しみだった」と書いている。
銀座通りの東側、一丁目から八丁目まで夜店が並んでいた。「夜店は夜の銀座に人をひきつけ、銀ブラを楽しいものしてくれたのだった」。
どんな店が並んでいたのか。
水原孝は挙げている。洋書を売る店、古本屋、切手や古銭を売る店、骨董屋、クシなどの日用品を売る店など。
こんな夜店が並んでいたら、すぐにでも行きたくなる。洋書を売る店があったというのはハイカラな銀座らしい。
さらに銀座っ子の水原孝は書いている。
「いまとちがって夏はクーラーがない。だから暑い夏の夜は、風呂から上がって浴衣(ゆかた)に着かえ、父や母と、あるいは兄弟や店の人たちと銀座に出て、夜店をひやかすのが暑さしのぎのたのしみの一つでもあったのだ」
夜店には、虫屋もあった。水原少年は、毎年ここでスズ虫を買ってもらうのが楽しみだったという。銀座の夜店は風流でもあった。