青森県の刀物鍛冶屋に15人兄弟の三男に生まれた「絵キチ」の少年は、若き日、裁判所の給仕をしながら絵を描き、「わだばゴッホになる」と誓って上京。徒手空拳、弱視というハンデもあった。1956年(昭和31)、長い伝統と権威を持つヴェネチア・ビエンナーレで、日本人として初めて版画部門でグランプリを獲得したのは53歳のことだった。また、日本芸術院会員を経ることなく文化勲章を受勲するという快挙は、美術界の常識を覆すものだった。棟方志功は〝世界のムナカタ〟になり、その存在は、美術界にとどまらず、国民的人気者になった。棟方の「板画」には、一言ではいい表わせない不思議な生命力を、作品一つひとつが放っている。──絵画から板画へと紆余曲折する棟方志功とはいかなる芸術家であったのだろうか。
2023年は棟方志功の生誕120年の節目の年にあたり、棟方と縁の深い富山、青森と二つの会場を経て、間もなく東京でも大回顧展が開催される。「棟方志功の作品が好きだ」と自認するクリエイティブ・ディレクターの榎本了壱さんに、改めて棟方芸術の本質に迫っていただいた。
棟方志功の誤解
文=榎本了壱
例えば、赤坂のそれなりに有名なすき焼き屋に行く。すると店内に、いかにも高額そうな棟方の作品が掲げられている。「うーん、さすがこの店、いい趣味してるよね」と言った感想を持ちながら、さらりと作品を睥睨する。「国民的画家」棟方志功だから仕方がない。しかしこうした人気が、あるいは高額店内インテリア的な仕様に納まってしまっている棟方作品に対して、結構な誤解を提供してしまっているのではないだろうか。京都駅の回転寿司屋に、相田みつをの書額がどすんと飾ってあるのも、これに近い。人気とか、認知度とか、ポピュラリティーを別に批判するわけではない。しかし、棟方志功の膨大な仕事を俯瞰しなければ、結構な誤解のまま、「国民的画家」という奇妙な存在に祭り上げられ、広くその本質を凝視するチャンスを逃しているように思う。
私は故あって、10年ほど青森県立美術館のパフォーミング・アーツの仕事に関わっている。今年棟方の「生誕120年」の記念展も見ているし、行けば常設展示の作品を覗いている。この「生誕120年」展こそ、棟方志功の真価を再認識するチャンスではないかとも思っている。
しかし棟方自身、その出発点から、やや誤解に近い決意をしている。洋画家の小野忠明に見せてもらった雑誌『白樺』の口絵、ゴッホの『向日葵』を見て、「わだばゴッホになる」と決意する。18歳(1921年)の棟方は当時色々な場所でこう宣言していたのだろう。書籍にもなった有名なエピソードである。しかしこの油絵への侵攻は成功しなかった。裁判所控室の給仕だった彼にはまだあまりにも、芸術的情報と表現スキルがなかった。それらの作品は後期印象派の領域を出ていない。面白い事にこの頃の作品(向日葵の絵)を、青森中学の学生だった太宰治が、寺町の花屋で購入しているのだ。のちに太宰は同郷人である棟方を忌避するようになるのだけど。