23歳(1926年)で東京に出てきて、当時人気のあった創作版画の川上澄生の作品に触れる。大正期のオシャレなモダニズムである。これで「版画に開眼」したというが、ここでも棟方の誤解があるように思う。しばらくは西洋寓話のような画題を彫っているが、迷走している。自分にないものに対する希求が、結局希薄な装飾的表現に終始しているのだ。ここではやはり、33歳(1936年)佐藤一英の日本神話をテーマにした長編詩『大和し美し』や、同年の『華厳譜』をもって、初めて棟方の芸術的基盤が出来たと言っていいだろう。柳宗悦や濱田庄司の「民藝運動」との出会いも決定的だったし、これは明らかに一つの「日本回帰」であった。そして仏教思想への接近も、大きく棟方世界を拡張していく。しかもここでは棟方の視線が「聖」から「性」へ、「菩薩力」と「女体力」が溶け合う不思議なエロスの世界を彫り出し始める。禁欲的な仏教思想に、豊満なエロティシズムを移入してしまったのは、棟方の大誤解か。いや「法(典)」より「悦(楽)」を描くことで、棟方の豊穣世界を顕在化させる、法悦開眼の大正解となっていくのだ。
こうした兆候は、自らの「板画本」(1946年)の制作で、戦後の日本の文芸界の動きとうまくリンクし、雑誌、文芸出版文化の中で、多くの表紙を飾るようになる。しかも何と言っても谷崎潤一郎との出会いだろう。1956年『鍵』の出版は、文芸と美術の画期的なコラボレーションとして、センセーションとなり、棟方はこれによって「国民的画家」の指定席を獲得する。文芸と美術の協働には、その少し前に佐藤春夫と谷中安規の仕事もあったが、こちらは安規の夭折で途絶えてしまった。
棟方が「版画」とは言わずに「板画」というのは、その表現手法ではなく、「板」という物質(メディア)に限りない敬意を持っていたからではないだろうか。そうした唯物的な意識がエロティシズムのリアリティにもつながっているように思う。版木を彫るその手法にも、陰陽の巧みな反転作業を試みている。白く線彫りすることで闇を蓄え、彫刻刀のエッジを生かした強い太い線画を残すことで、それが対照となって、陰翳礼讃する。大きな作品ほどそれは強烈に主張している。また紙裏面からの手彩色は、俄かに寓話性の色彩を強調し出す。そして言葉の配置。「読む絵画」は、文芸との出会いがなかったら、存在しなかっただろう。この棟方独自の筆致(もちろん版木を彫っているのだから)が、ムナカタ・フォントを創生して、結局これが強いオリジナリティとして認知されることにもなる。