東宝が織田作之助の代表作を映画化するにあたってセットしたのは、淡島千景との共演であった。ところが、淡島が所属していた松竹は(いかに彼女が宝塚出身とは言え)東宝作品への出演をなかなか容認せず、女房役は有馬稲子へとシフト。有馬の張り切りようは彼女の自伝的書物に詳しいが、東宝は非情にも『夫婦善哉』製作中止の断を下す。
このとき森繁が取った行動は、まさに東宝に対する痛烈な〈反抗〉だった。「(法善寺横丁のセットに)予算を使い過ぎたので見送りになった」と言い訳をする森岩雄取締役に対し、「そんなずさんなことでよく所長が務まりますね」(※5)と言い放った森繁。よほど腹の虫が治まらなかったのか、遂には他社の映画に出まくるという挙に出る。
結果、1955年の公開作は何と十八本(※6)。「もう東宝には戻らないつもり」で出た『警察日記』(のちに名コンビとなる久松静児監督作)を皮切りに、出演した映画は日活七本、新東宝七本、東宝二本、東京映画二本と、ほとんどが他社作品。協定破りの是非を問われた森繁が放った言葉は「東宝は本妻、新東宝は二号で、日活は最近気移りした三号」なる一言。このままでは日活に引き抜かれてしまうと恐れた東宝が、森繁にかけた言葉は「俺たちは待っている」であった。
東宝への謀反が奏功し、結局『夫婦善哉』は淡島との初共演作として実現。その後の役者としての方向性を決める役柄を得た森繁だが、他の映画での役柄の多様性には驚くばかり。
いわゆるアチャラカ喜劇から東宝お得意のサラリーマンもの、さらには青春映画に時代劇、チャンバラやくざものからシリアスな社会派作品と、それこそジャンルを問わず、悪役・ペテン師に至るまで森繁が様々な役をこなしたのは、「すべて観客へのサービス精神によるもの」と断ずる建氏。普通、豊田四郎や久松静児の文芸映画で評価された役者は、悪ノリ=ドタバタの極致『スラバヤ殿下』(筆者はこれを心から愛する者だが)などには出ないもの。これも、森繁の喜劇役者としての矜持・美学の表れと見れば納得がゆこう。
ちなみに、森繁の社長シリーズのギャラは「正続篇二本で一本半分」の額。これは〝二本撮り〟の『次郎長三国志』も同様で、案外こんなところに森繁の会社への反発の原点があったのかもしれない。
後編となる次回は、森繁がかの大監督に反逆の狼煙を上げたお話を。反骨精神は東宝や黒澤明に向けられただけではなかったのだ……。
※1 国民栄誉賞と文化勲章を併せて受けた喜劇俳優は、今のところ森繁ただ一人。
※2 『無責任』二部作に始まり、クレージーキャッツ全員で出演した『作戦』シリーズ、植木等主演による『日本一(の男)』シリーズの他、時代劇シリーズがあった。
※3 加東は監督のマキノ雅弘の義弟にあたる。念願の役だった三保の豚松は、マキノにより脚本が書き換えられ、殴込みの際に「殺されて」しまうことに。
※4 同じく出演拒否した古川ロッパは、「あんまりひどい役で呆れた。金も安いに違いない」と日記に綴り、その理由を明らかにしている。
※5 森岩雄を撮影所長とみなしての発言。しかし、当時の所長は雨宮恒之。森は製作本部長であった。
※6 日活では森の石松まで演じる無軌道ぶり。そのほとんどが主演作というのが凄いが、いったい、いつの間に撮ったのか?
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。