映画は死なず 実録的東映残俠伝
─五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀─
文=多田 憲之(東映株式会社 代表取締役会長兼社長)
ただ のりゆき
1949年北海道生まれ。72年中央大学法学部卒業、同年4月東映株式会社入社、北海道支社に赴任。97年北海道支社長就任。28年間の北海道勤務を経て、2000年に岡田裕介氏に乞われて東京勤務、映画宣伝部長として着任。14年には5代目として代表取締役社長に就任し20年の退任と同時に取締役相談役就任。21年6月、現職の代表取締役会長、23年2月社長兼務。
※2023年2月14日、東映は、代表取締役社長手塚治氏の死去を発表した。享年62。本連載の執筆者多田憲之会長が今後社長を兼務することが発表され、「皆が言葉を失い動揺のさなかにおります。昨年のラインアップ発表会で宣言した『創業以来最高の成績を出す』を実現した矢先でした。彼は東映の更なる成長を誰よりも熱望し、社員を牽引してきておりました」と悼んだ。
企画協力&写真・画像提供:東映株式会社
東京に異動になった2000年頃は、東映は借金だらけの会社だった。映画界全体の激変期であり、直営館は赤字だらけだった。以前にも言ったが、岡田茂社長は決してリストラということをしなかった。それも、赤字の要因ではあった。東映が会社として景気が良く、隆盛を誇っていたのは1960年で、契約者を次々に社員として採用していき、9000人の社員がいた。だから、その社員たちが退職していく2000年頃には、毎月の退職金の支給だけでも相当な出費となっていた。直営館制度がなくなってシネコンを立ち上げるのには再投資しなければならない。なにしろシネコンのビジネスモデルはショッピングモールだから、映画館の跡地にそのままシネコンを造るというわけにはいかない。バブルの後始末の時期でもあった。当時、東映の抱えていた借金は約1100億だったから、よくも持ちこたえたなと思う。
宣伝部長としてできることは、映画を当てることしかない。あの頃は、1年間の営業利益が50億くらいあったのだが、決算できなかったこともあった。配当はしなければならない、給料は上げなければならない、借金は払わなければならない。映画の業績を上げるしかない。その時代、利益を上げていたのがビデオ、DVD部門だった。映画興行の失敗をビデオ、DVDのセールスが補填してくれたから、しのげた。
劇場動員数で言えば、東映映画に観客が詰めかけていたのは50年代後半。日本の総人口8千万人くらいのときに、約12億人の観客動員数を数えていた。生まれたての赤ん坊まで含めて、1人当たり映画館に年間10回以上足を運んだ計算になる。月に1本くらいは国民全員が劇場で映画を観ていたわけである。それが、2000年頃になると、動員数は1億2、3千万人程度になった。日本人が1年間に1回しか映画を観ないということである。その時代は、圧倒的に洋画が強かった。観客の7割はアメリカ映画を観ているのである。岡田茂社長が〝洋高邦低〟だと言っていた時代である。そういう時代だから、岡田裕介は、邦画はだめになるのではないか、とよく言っていた。後に、岡田裕介は自身の社長時代にその借金を返済してしまうのだから、社長としての手腕はすごかったと言えるだろう。でも、一方で、一定のお金しかないのを借金返済に充てると、設備投資というのができなくなるのも事実。だから、社長岡田裕介が成しえなかったことをあえて挙げるとすると、設備投資ができなかったということだ。だが、これはしょうがないことだったろう。そう考えると、岡田裕介社長の遺産というものは、借金を返済し終えて、ほぼ無借金状態になったことで、設備投資に向けての環境を作ってくれたことだと言えるだろう。