以前、『レディ・マエストロ』(2019)を観た。1920年代後半のニューヨーク。「女子は指揮者になれない」と言われながらも、オランダからの移民女性、アントニア・ブリコが差別や家庭問題を乗り越え夢を実現させていくその半生を描いたものだった。
日本の音楽界でも西本智実氏を筆頭に、国際若手指揮者コンクールで優勝した沖澤のどか氏など、女性指揮者が活躍する時代になった。世界的にも女性マエストロが珍しくなくなって、ついに世界的名門のベルリン・フィル初のマエストロ<リディア・ター>が誕生した物語かと予想したが、そうではなかった。
トッド・フィールド監督の作り上げたリディア・ターは、並外れた才能の持ち主でありながらも努力を惜しまないスーパーレディである。設定されたターの背景は、アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、ベルリン・フィルの首席指揮者に就任する。7年を経た今も変わらず活躍する一方、作曲者としての才能も発揮し、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の全てを制した。師と仰ぐバーンスタインとおなじく、マーラーを愛し、遂に来月ライブ録音を終え発売の予定。しかも自伝の出版も控え、若手女性指揮者に教育と公演のチャンスを与える団体で講義を持つことにもなった。そして私生活ではヴァイオリン奏者で、コンサートマスターでもある恋人のシャロン(ニーナ・ホス)というパートナーがいて、養女(ペトラ)を育てている。
しかしマーラーの交響曲5番のライブ録音を控え、キャリアの絶頂にあるターであったが、指導者としても制作者としても壁に苦しんでいた。そんなとき、ターのもとに彼女が指導した若手指揮者の訃報が入ってくる。ターの完璧な世界は少しずつ崩れ始めるのだ。ターへのいわれなき誹謗中傷、この天才的な女流指揮者を襲う陰謀? 残念なのはターという人物の有り余る才能は、楽団員のこころをつかめなかったことだ。オーケストラのみならず、ビジネスの世界でもありがちな独り善がりで自ら墓穴を掘ってしまうことに。
何といってもケイト・ブランシェットの演技に圧倒される。自身の最高傑作を塗り替えたともいわれ、TAR(ター)そのものになりきった。オーストラリアのメルボルン生まれのケイト・ブランシェットは、ドイツ語とアメリカ英語をマスターし、ピアノと指揮をプロから本格的に学んだ。すべての演奏シーンも自身で演じきった。実在の人物のノンフィクションを観ているように錯覚させる熱演だ。世界の映画賞を席巻したというのも頷ける。
『TAR/ター』は、5月12日(金) TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー
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配給:ギャガ