1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
人生は縁である。
ある日、知人から<カールスモーキー石井>を紹介される。
<米米CLUB>の大スターであり、自分もカラオケでは「君がいるだけで」(1992)を数十回、熱唱させてもらっていた。
初対面で、二人だけで5時間位話しただろうか。<米米CLUB>が、文化学院(美術)の仲間たちで、そもそもは映画製作を目指して結成されたとか、初めて聞く話が殆どだった。福島県との県境の茨城県北茨城市生まれで、いじめられっ子だった話とか、実家は老舗の和菓子屋、石井製菓であることや、コミックバンドとして「映画」の為に作った米米CLUBが、気が付くと大メジャーになってしまっていたとか、本来は油絵学科で画とか彫刻がメインで……など、それまでの人生を熱く語ってくれた。
自分がいつも見ていた<カールスモーキー石井>ではなく、本名でもある石井竜也が、そこにいた。年齢も近く、自分の一つ下。凄まじいほどの映画愛。
「いじめっ子」の話から、それを「河童」に置き換えて、話は延々と続く。普段はプロデューサーである自分が喋る分量が多いのだが、その時はほぼ聞く係だ。パッション満開。やがて、既に出来ている映画『河童』のクリーチャーが登場。河童を目の前に、ストーリーが語られ始める。
「もう、ストーリーは出来ているのか……」
終盤には、ついに「ちょっと、これ聞いてもらえますか……」
いきなり、主題歌と思うような音楽が流れる。
「もう、主題歌まで出来てるんじゃん……」
と、一人で感心しながら。
「河井さん、映画は僕らの夢で目標なんです!」
何百万枚のセールスのヒット曲を生み出して来たカールスモーキー石井とは、何て謙虚でストレートな男なのだろう……と一人で頷きながらポツリと。
「やりましょう!」
「映画、やっていいんですか?」
ただ、数万人の前で行なうコンサートに何回か行くと、そこにはカールスモーキー石井という大エンタテインメントスターがいて、自分の中では<石井竜也>と映画を作るんだ! と言い聞かせ<カールスモーキー石井>と<石井竜也>の二重人格ではないが、区別が必要な時もあった。
それからはスター活動の合間に何十回と会い、打ち合わせを重ねて行く。
当時、<米米CLUB>の所属していたレーベルのソニー・ミュージックや、事務所のサポートの中で、『河童』(1994)の製作はスタートした。