シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
学童の頃の記憶に刻まれた歌は、時に口ずさんだり鼻歌になったり、長じてカラオケで歌い、愛唱歌として老年になってもラインナップされている。で、わが昭和歌謡のレパートリーに欠かせないのが、ペギー葉山「南国土佐を後にして」である。1959年(昭和34)5月にシングル盤となってキングレコードから発売されたこの楽曲は、一年も経たずに100万枚を超える大ヒット曲となって全国津々浦々で歌唱された。言うまでもなく、明仁皇太子殿下と正田美智子さん(上皇ご夫妻)のご成婚で日本中が〝ミッチーブーム〟に沸いた年で、家庭にテレビが一気に普及し始めた年でもあった。所得倍増の掛け声とともに戦後の昭和が明るい希望の一歩を踏み出した、とテレビやラジオがはやし、映画上映前のニュースフィルムの記憶もある。
この楽曲が子ども心に興味を惹いたのは歌謡曲なのに高知県の民謡〝よさこい節〟が取り入れられ、全国に浸透していったことだった。それに、当時10歳の小学生には一番の歌詞のサビになっている意味が不明だった。なぜ?「坊さんかんざし 買うを見た」と冷やかし半分なのだろう、と。「そりゃお前、坊さんの頭に、かんざしは掴まらんから」と父親は笑って多くは答えてくれなかったが、後年になって「坊さんとかんざし事件」には、駆け落ちまで発展し別れ別れになる悲恋の逸話があるという。
それかあらぬかこの「南国土佐を後にして」がどのようにして生まれ歌われるようになったのか。テレビの歌謡ショーの舞台中継で歌うワンピースの広がるフレア華やかなペギー葉山が大柄に見え、ジャズか洋楽を歌っているように思えた。それが、実は日中戦争下の中国大陸の最前線にさかのぼり、昭和の戦禍を背景に歌い継がれた軍歌であったという壮大なヒストリーがあることなど、今日まで寡聞にして知らなかった。
本誌の<カルチャー・スクランブル>欄で健筆を揮っていただいた音楽・演劇評論のレジェンド、安倍寧さんが「一曲のヒットソングを巡るノンフィクションとして最高の作品」と文庫本化に当たって解説し推薦していることから、門田隆将著『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』を知った。解説に当たって安倍さんはペギー葉山と昭和8年生まれの同い年であり、彼女のデビューとともに音楽の道を歩んできたと語っているし、門田氏の綿密かつ膨大な取材による渾身のノンフィクションの読み物を前に、これ以上本楽曲を語る余地もないような気がしている。本欄ではとても収まり切れない歴史に隠れた物語があるのだ。
正直、小学生でも簡単に覚えられた「南国土佐を~」の導入部のテンポの軽やかさ、本来はジャズ歌手のペギー葉山の明朗で闊達な、屈託のない歌唱ぶりから、望郷の歌としては伝わっても、これが軍歌だったなど、想像もしなかった。かてて加えてペギー葉山の風貌とスラリとした立ち姿が、ハワイ帰りの二世のように見えていた。
安倍さんは、「軍歌は兵隊の勇気を奮い立たせるはずだが、この〝南国土佐を後にして~〟には兵隊たちの哀調が伝わってくる」と語り、土佐、高知県出身の門田氏がそのルーツを探った結果が本書になっている。まず驚愕したのは、そもそも「南国土佐を後にして」の原曲は、〝詠み人知らず〟という事実。遠く中国大陸に渡り中支戦線のまっただ中で歩兵第236連隊(通称、鯨部隊)によって歌い継がれた「南国節」をルーツとし、高知県出身者が多数を占めた鯨部隊の兵隊たちによって土佐の民謡「よさこい節」が変じたものだという。門田氏は、「中国戦線でつくられた南国節は〝生〟と〝死〟の狭間にいた若者たち(兵隊)が、異国の地で故郷を偲び、家族のことを思いながら歌い継いだ〝望郷の歌〟だ」と記している。鯨部隊は中国大陸を行軍しながら、「南国土佐を後にして〝中支〟に来てから幾歳ぞ…」と歌いながら生き残った元兵隊(取材時95歳)のコメントも引用されている。安倍寧さんは、軍歌は兵隊を鼓舞する勢いのある歌、戦時歌謡は銃後の国民が歌う哀しみ漂う歌と区別したが、「南国節」に漂う悲壮感はとても軍歌の勇猛果敢な響きはない。ただ「南国節」を歌唱することで、望郷と郷愁が高まり〝生きてふたたび家族のもとへ〟という思いが執念と化して、生き抜く〝力〟となったのだろう。
本来は詠み人知らずの「南国節」に命を吹き込んだのは作詞・作曲の武政英策である。戦後、夫人の郷里、高知に引揚げた武政は、安酒場で元兵隊たちが酔って歌う「南国節」を耳にして、不思議な歌の〝力〟に惹かれた。何人もの引揚者の元兵隊たちから聴き取りを重ね採譜したという。歌い出しは浪曲か詩吟のようだった原曲が、音楽家・武政によって様々な工夫が施され、よみがえったのだった。昭和27年頃のことだという。間もなく武政は、高知市民のために「よさこい祭り」を仕掛け、現在の「よさこい鳴子踊り」を完成させるが、詳しくは本書に譲ろう。