1981年ジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
最も様々な決断を迫られたのは映画『スワロウテイル』だ。
ある意味では『Undo』も『Picnic』も『Love Letter』(1995)も、最初に読ませてもらった『スワロウテイル』(1996)を実現するための過程でもあった。
『Love Letter』の製作を強行したためにクランクイン前に突然、編成部へ異動になった。当時、12年間連続視聴率NO1の編成部を経験できたことは、テレビ局の今、未来を考える上では、とても貴重な体験の日々だった。ただ、編成部で映画の製作は厳しく、2時間ドラマを担当しながらも、『スワロウテイル』の実現化は諦められなかった。
大きな出会いの1つは音楽家の小林武史さんとの縁だった。
ある女優を介して彼がプロデュースするMr.Children(ミスター・チルドレン)の映画の話に来られた。アルバム『Atomic Heart(アトミック・ハート)』(1994)が280万枚のヒット中だった。『Love Letter』が進行中の頃だと思うが、編成部所属で原則、映画にタッチ出来ない。
ダメ元で編成局長に相談、談判? した。当時は直ぐにYESと言ってもらえるはずもないが、条件が出て、それをクリアすれば考えてもらえると。これは『私をスキーに連れてって』(1987)の編成担当役員&編成局長(当時)と同じパターンだ。
①本名では無くペンネームで
②大人気のミスチルを、始まったばかりの歌番組「Hey!Hey!Hey!」に出演させること
③編成部の業務に支障なきように……
他にもあったかも知れないが、この3つは難しいことではなかった。
①は【Koike Shinya】とした。【古池】は母の旧姓である。②は今ではちょっと考えにくいが、ミスチルのレコード会社<トイズファクトリー>が日テレ系でフジテレビになかなか出演してもらえなかったゆえ。これは小林武史さんのお力で。③はそんなに大変な業務はなかったので大丈夫……。
これで『Mr.Children in FILM【es】』(1995)が誕生することになる。そしてこの映画の実現化が無ければ『スワロウテイル』の映画化もなかっただろう。
『Love Letter』を観てくれた小林武史さんは大いに気に入ってくれ、ここで「岩井俊二&小林武史」のコンビが生まれることになる。二人はサザンオールスターズのPV等を介して知り合いだったが、仕事はこの映画が初めてとなった。