今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
父は上原謙、母は小桜葉子という俳優一家に生まれ、慶応義塾に通ったサラブレッド・池端直亮。大学卒業にあたり、東宝という映画会社で俳優になる道を選んだのは、なんと「親の地盤をいかして、趣味のスポーツや音楽をいかせる」から。近年の回想録でも、「一旗あげて、好きな船を作る」との想いが強かったと述べている。
加山雄三という芸名が、加賀百万石の「加」、富士山の「山」、英雄の「雄」、東京宝塚劇場の設立者にしてのちの東宝社長・小林一三の「三」からきていることはよく知られた話。しかし、実はこの名は東宝でなく、母方の祖母が占いで付けたものなのだという(日本経済新聞「私の履歴書」)。
そして、さらに驚くのは、加山が俳優という職業にあまり執着を持っていなかったことである。実際、若大将シリーズの助監督を務め、『俺の空だぜ!若大将』で監督デビューした小谷承靖監督も、「加山は、黒澤さんの映画と‶若大将〟以外は、何も憶えていないからなぁ」と笑っておられたほど。弾厚作なるペンネームを持ったことからも、加山は映画俳優というより音楽家としての意識の方が強かった事実が見て取れる。
映画俳優としてのデビュー作は、60年6月封切の谷口千吉監督作『男対男』。入社してすぐに、三船敏郎と池部良が対決するハード・アクションの助演者に抜擢されたのだから、会社の期待の大きさが窺える。ところが、北あけみとのキス・シーンの印象がよほど悪かったのか、加山は「こんな仕事、馬鹿馬鹿しくってやってられない」との思いを抱く。デビュー作からこんな調子だから、加山が俳優業に夢や希望を持っていなかったことは明白だ。
ところが、続く岡本喜八監督の〝戦争アクション〟『独立愚連隊西へ』でいきなり主役クラスに抜擢、かつ劇中歌を歌うシーンがあるためか、これにはかなりノッて取り組んだようだ。翌61年も加山の売り出しキャンペーンは続き、いよいよここで一生の方向性が定まる『大学の若大将』と出会う。
与えられたニックネームがもし〝若旦那〟であったら、あれほど長く続く人気シリーズにはならなかったろう――、と自ら振り返っているとおり、‶若大将〟というネーミングは本人にとっても会社にとっても大正解。〝スポーツ万能で音楽も得意、おまけに大食いのおばあちゃん子〟という加山本人を思わせるキャラ設定(※1)までなされており、〝明るく楽しい〟東宝のスクリーンには実に相応しい主人公像であった。
屈託のない大らかさは、黒澤明作品『椿三十郎』(62)でもいかんなく発揮される。このとき黒澤は、撮影中に居眠りした加山を「加山のために30分休憩!」と許容し、厳しい姿勢を示していない。ある意味加山は、東宝という会社の中で大事にされ過ぎ、ぬるま湯の中で育った俳優だったのだ。
したがって俳優としてのプロ意識は上がるはずもなく、逆に『ハワイの若大将』(63/シリーズ四作目)から自作の曲が採り上げられたこともあり、音楽家としての意識は高まる一方。
そんな中、俳優として揉まれたのが、『乱れる』(64)と『赤ひげ』(65)であった。丸1年に亘り演技者として鍛えられた『赤ひげ』については、本人もよく語っているところだが、なにせ成瀬巳喜男監督の『乱れる』は、高峰秀子との〈サシ〉の競演である。ここでは、子供時代から付き合いがあった高峰の、女優としての厳しい姿勢を大いに学んだものと思われるが、これについて加山本人が語ることはほとんどない。
ご存知のとおり、『エレキの若大将』(65)で歌われた「君といつまでも」の大ヒットは、加山の歌手としての存在感を大いにアップした一方、俳優としての前途を縛ることにもなる。ジャスやクラシックに親しみ、多重録音で曲を作るという、日本のシンガー&ソングライターの草分け的存在でもあった加山は、ベンチャーズやビートルズとの関りも深く、ミュージシャン意識が強まったのも致し方ない。B面の「夜空の星」は、中学時代にピアノ練習曲として作ったものだというから、このときは好きな音楽が俳優業を後押ししたことになる。