前回では、1960年代半ば世界的にヒットしたボサノヴァに触れ、そのDNAを受け継いでいると勝手に解釈してピンキーとキラーズの「恋の季節」を書いた。この56年前のリリースの大ヒット曲がよみがえってから、ボサノヴァ・ブームの1960年代をもう一度振り返ってみた。十代前半からボクは輸入洋楽のカヴァー曲を追っかけていた、というより日本の歌謡曲は、カンツォーネやシャンソンなど欧州系のヒット曲ばかりが流行っていて記憶に残っているというべきか。森山加代子がミーナの「月影のナポリ」をデビュー曲としてカヴァーしてヒットさせ(ほぼ同時期ザ・ピーナッツも競作してヒットした)、ペギー葉山は「ケ・セラ・セラ」、エンリコ・マシアスの「恋心」を岸洋子が歌い、高英男の「幸福を売る男」でシャンソンの匂いを嗅いだ。そして布施明のデビュー曲が「君に涙とほほえみを」で、イタリアのボビー・ソロのカンツォーネ風元歌も浮かんでくる。また、ザ・ピーナッツはテレビの露出も多く「キサス・キサス」、「悲しき16才」等は姉と一緒にテレビの前にかじりついたものだった。
そんな洋楽の変遷とともに、日本の歌謡界もボサノヴァ・ブームにあやかろうとしていたのだろう。1962年キングレコードから、その名も「ボッサ・ノバでキッス(エッソ・ベッソ)」で梓みちよがデビュー(作詞:水島哲、作曲:J.Sherman、N.Sherman、編曲:宮川泰)。福岡女学院高校2年で退学し宝塚音楽学校に編入学、間もなく渡辺プロダクションのオーデションに合格して約一年間歌唱を学び、ポップスが得意の少女は、〝ボサノバ娘〟のキャッチフレーズを冠してラテン音楽のカヴァー曲で勇躍デビューしたというわけだ。当今は便利なもので、YouTubeで検索すれば、この62年前の梓みちよの楽曲を聴くことができる。驚いたことに、とてもまだ19歳の歌唱とは思えない堂々とした歌いっぷり。渡辺プロ社長の渡辺晋が名付けたという「梓」は、古典の「梓弓(あずさゆみ)」から「しなやかに強くなってほしい」との願いが込められているというが、まさに名は体を表していた。
ほぼ一年間10曲あまりの洋楽カヴァー曲をリリースしたのち、その歌唱力と声量が買われたのか、彼女は作詞:永六輔、作曲:中村八大という大ヒットメーカーのオリジナル「こんにちは赤ちゃん」を、NHKの人気バラエティー番組の「夢であいましょう」の「今月の歌」として発表する僥倖に恵まれたのである。梓みちよがデビューした翌年の1963年(昭和38)7月のことである。「夢あい~」の今月の歌の反応は凄まじく、キングレコードは慌ててリリース、シングル盤が世に出たのは11月のことだった。この楽曲がいかにビッグヒットだったか、まず12月の第5回日本レコード大賞の大賞受賞、第14回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、梓みちよは彗星のごとく人気歌手となった。蛇足だが、紅組梓みちよに対抗した白組は、3回目出場の坂本九が「見上げてごらん夜の星を」を歌唱、同じ永六輔作詞(作曲:いずみたく)という興味をそそる粋な対抗戦の組み合わせだった。
翌年の3月、選抜高校野球大会の開会式の入場行進曲にも採用され、5月には東京・文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待され、昭和天皇の御前で「こんにちは赤ちゃん」を歌唱する。明治時代以降として、日本の芸能界初の天覧歌謡曲となったことで話題沸騰した。東宝、日活ではストーリーこそ違うが同名で映画化もされた。町の商店街のあちらこちらのスピーカーから、「こんにちは赤ちゃん!」と歌唱する梓みちよの優しい歌声が流れた。ボサノヴァの力強い歌唱はすっかり鳴りを潜め、ママになり切った二十歳の梓みちよの母性的な歌唱に誰もが合わせるように口ずさみ和んでいた。後年(2016年7月)、84歳で永眠した永六輔を追悼したコメントに、「ママでもないのに、どう歌えばいいんですか?」と梓が泣きべそをかきながら問いかけると、「いいかい、胸に玉のようなかわいい赤ちゃんを抱いていると思って歌えばいいんだよ」と諭したというエピソードを梓は語っている。この一曲で人気歌手となってゆく梓みちよが誕生したと思うと、思わず胸が熱くなる挿話である。
しかし、それほどの大ヒット曲が梓みちよを苦しめることになっていくとは、知る由もなかった。その後、NHK紅白歌合戦こそ連続7回出場(第15回「リンデンバウムの歌」、第16回「忘れたはずなのに」、第17回「ポカンポカン」、第18回「渚のセニョリーナ」、第19回「月夜と舟と恋」と続き、第20回では2度目の「こんにちは赤ちゃん」を歌唱)しているが、毎回大ヒット曲をたずさえての出場ではなかった。「赤ちゃんは10年以上眠ってしまった」と陰口すら聞こえた。「こんにちは赤ちゃん」の〝清純〟なイメージが重すぎたのか、長年コンサートでも封印するほどだった。「今さら私には似合わない」とうそぶいていたのである。