チャイコフスキーが同性愛者だったことは、多くの伝記作家や音楽史家が認めている。本作は、その彼のセクシュアリティをはじめは知らず一目惚れし、盲愛した女性の物語である。ストーリーは単純な愛憎劇だが、19世紀末の帝政ロシア時代、女性の自由と権利が著しく制限されていた状況を浮き彫りにしながら、後世まで〝世紀の悪妻〟呼ばわりされたアントニーナ・ミリューコヴァの実像を、鬼才キリル・セレブレンニコフ監督は史実を忠実になぞりながら大胆な解釈を織り交ぜて描ききった。
昨今世界では同性婚を認める国が急速に増えているが、かつて多くの国や地域では違法、あるいは異端視されていたことは周知の通り。1990年まで世界保健機構(WHO)でさえ同性愛者を〝病気〟とみなしていたのだ。優れた交響曲、協奏曲を生み出していたチャイコフスキーはその〝病気〟だった。彼が特異なセクシュアリティであることが詳らかにされるのは、当時のロシア音楽界ひいてはロシア国家にとってもタブーだった。アントニーナの求愛を受け止めたように装いながら結婚するが、あからさまに彼女を拒絶する夫婦生活が始まる。男性しか興味のないチャイコフスキーは極度のストレスに陥り自殺さえほのめかすようになる。暗澹たる結婚生活は破滅し、チャイコフスキーは逃げるようにアントニーナのもとを去ってしまう。
永遠に愛することを誓ったアントニーナにとっては、周囲(兄弟など)から離婚を迫られても頑として拒否する。〝偉大なる天才作曲家〟を擁護するために〝悪妻〟に仕立て上げようとする彼らの意図が見え隠れする。彼らにとってチャイコフスキーは、同性愛者であってはならないのだ。アントニーナは、夫への揺るぎのない愛を訴えても、誰の理解も得られず孤独な日々の中でもがき苦しみながら、精神を病み狂気の奈落の底に堕ちてゆく…。
反骨のキリル・セレブレンニコフ、ロシアの弾圧と闘う
キリル・セレブレンニコフ監督は、ロシアのウクライナ侵攻に異議を唱えて、現在はドイツに亡命中である。彼のアーティスティックな感性は、格調高い絵画的な映像美を生み、本作でも流麗なカメラワークと、長回しの演出に息をのまずにはいられない。
彼は1969年、ロシア、ロストフ・ナ・ドヌ生まれ。ロストフの劇場で演出家を務めたのち、2000年代以降はモスクワ芸術座などで、数多くの舞台の演出を手がける。2012年には若くして権威あるゴーゴリ・センターの芸術監督に指名され、鬼才なる演出家として頭角を現す。2017年、国からの演劇予算の不正流用を疑われて詐欺罪で起訴され、自宅軟禁に。かねてより政権に批判的な姿勢を明らかにしていたため、この逮捕を不当な政治弾圧と見る向きもあり、演劇界・映画界からセレブレンニコフを支持する声が上がった。2018年8月にフランス芸術文化勲章最高位を受章。2020年6月10日に有罪判決が下され、執行猶予付き3年の刑及び罰金が科され、保護観察下に置かれる。2022年3月、容疑取り消し裁判の決着後にロシアから亡命し、現在はドイツなどを拠点に制作を続けている。
主な監督作に、第69回カンヌ国際映画祭フランソワ・シャレ賞受賞作『The Student(英題)』(16/未)、第71回カンヌ国際映画祭サウンドトラック賞最優秀作曲家賞受賞作『LETO-レト-』(18)、第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作『インフル病みのペトロフ家 』(21)など。本作『チャイコフスキーの妻』(22)は、第75回カンヌ国際映画祭コンベティション部門に選出された。さらにベン・ウィショーがロシアの活動家、エドワルド・リモノフを演じた最新作『Limonov: The Ballad(原題)』(24)は、第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にて上映されるなど、今世界から最も注目される演出家・映画監督の一人である。
『チャイコフスキーの妻』
9月6日(金) より 新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
配給:ミモザフィルムズ
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