小学生の夏休み。朝の涼しいうちに勉強しなさいと、10時までは外出禁止。時計とにらめっこしながら、10時の時報とともに外に飛び出す。半ズボンの下は海水パンツ、近くの川にいつもの仲間が集る。昭和のある時期までは、地方や郊外の町中だと、近場にも泳いだり、魚が捕れる、水遊びができる川があった。柳の葉を糸にくくりつけ、カニを釣ったりもした。夏の遊び場は、やはり水辺が多かった。時には近くの海にも出かける。一日中太陽の下で遊んだ子供たちはみな真っ黒。ランニングシャツの部分だけが白い。町の発展に伴い、都心の近場には泳げる川がなくなり今は、よほど田舎に行かないと、川での水遊びも願うべくもない。真っ黒に日焼けした子供たちも、いつの間にかいなくなってしまった。
川で泳いだあの夏の日
懐かしい川辺の夏のスケッチ
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2014年7月1日号より
川は絶好の夏の遊び場だった
昔の子供たちはよく川で泳いだ。プールなどない時代、川は絶好の夏の遊び場だった。川の水はまだきれいだった。
宮沢賢治の『風の又三郎』(昭和はじめ頃)では、谷川の岸にある村の学校に転校してきた又三郎が、村の子供たちに誘われて、授業のあと、川に泳ぎに行く。
そこは、もうひとつの谷川が流れ込んできて少し広い河原になっている。そのすぐ下流は大きな木の生えた崖になっている。自然のプールのようなところ。六年生の一郎が先頭になって川へ向かって走る。
「一郎やみんなは、河原のねむの木の間をまるで徒競走のように走っていきなりきものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで両足をかわるがわる曲げてだぁんだぁんと水をたたくようにしながら斜めにならんで向う岸へ泳ぎはじめました」
小さな学校のすぐそばを渓流が流れている。授業が終ると、子供たちはまっしぐらに川へ行き水に飛び込む。昭和の子供たちの元気が伝わってくる。
川では泳ぐだけではない。子供たちは「石取り」をする。一郎が、崖の上の木にのぼって上から白い円い石を、淵のなかへ落とす。それを見て「みんなはわれ勝に岸からまっさかさまに水に飛び込んで青白いらっこのような形をして底へ潜ってその石をとろうとしました」。川に潜って、石を取ってくる遊び。子供たちは、遊びを工夫している。
ふんどし一つで川遊びをする子供たち
戦後の子供たちに人気があったNHKのラジオドラマ「三太物語」(原作、青木茂)。
「おらあ、三太だ」の元気な子供の声で始まる。小学生の三太は、川のそばに住む。川で泳ぐのが大好きな川っ子。
泳ぐだけではない。釣りも得意で、アユを釣ったり、ウナギを捕まえたりする。
三太が泳ぐ川は、神奈川県の相模湖に近いところを流れる道志川。山中湖から流れ出て相模川に合流する。大きな川ではないが、水質がいい。
夏の一日、雨があがると三太はもうじっとしてはいられない。
「朝までふった雨があがった。道志川は水のすむのが早い。水かさはまだおおいが、昼ごろには、ガラスののぞき箱で川底が見えるくらいになった。日はかんかん照りだし、子どもたちは、もう家にいられない。おらは、ふんどし一つで、ガラス箱、小さなタケびく、みじかいやすという、いつもの手なれた道具をひっさげて、めしを食べおえるやいなや、とびだした」
「ふんどし」が時代をあらわしている。『風の又三郎』の子供たちも、おそらく「ふんどし」で泳いでいるだろう。
ガラス箱、タケびく、やすを持っているのは川で魚を捕えるため。遊びと実用を兼ねている。
ラジオドラマ「三太物語」は好評だったので、そのあとすぐに映画になった。『三太物語』(51年、丸山誠治監督)『花荻先生と三太』(52年、鈴木英夫監督)『三太と千代の山』(同年、小田基義監督)『三太頑張れッ!』(53年、井上梅次監督)と四本も作られた。『三太と千代の山』には当時の人気横綱千代の山が出演して話題になった。
川で泳ぎ、魚を捕まえる。川っ子の姿が、都会っ子には羨ましかった。後年、一九九〇年代に、三太の故郷、神奈川県津久井町(現在、相模原市緑区三ケ木(みかげ)に行き道志川を見た。
原作者の青木茂が泊って『三太物語』を書いたという旅館が道志川のそばにまだ残っていた。私と同世代のおかみさんは、子供時代には三太と同じように川でよく泳いだ、アユがあふれ、子供でも捕えることが出来た、それを開いて、日に焼かれ熱くなった川原の石の上にのせて食べた、と思い出を話してくれた。いま、こんな川の暮しが消えつつある。