昭和30年代や40年代の小学校の各教室にはオルガンがあった。ピアノは音楽室にアップライトピアノが一台、講堂や体育館にグランドピアノが一台という感じだった。授業の休み時間になると、女の子たちはオルガンのまわりに集まり覚えたてのメロディを弾き合った。唱歌やフォスターなどのアメリカ民謡に「ドナウ川のさざなみ」や「スケーターズワルツ」。「エリーゼのために」や「乙女の祈り」などを弾く子たちはピアノ教室に通っていた。近所の教会の日曜学校でオルガンに合わせて讃美歌を歌ったりもした。
クリスチャンではなかったが、目的は配られるお菓子だった。オルガンの音色は小学校の板張りの床の匂いや、同級生や先生の顔を思い出させてくれる。オルガンは懐かしい昭和の音である。
オルガンが奏でた唱歌や讃美歌
オルガンは子供と共にあった
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2015年4月1日号より
オルガンを弾く女の先生
ピアノの普及によって近年すっかり見なくなってしまったのがオルガン。私などの小学生時代と言えばオルガンが憧れの楽器だった。音楽の時間には、先生がオルガンを弾き、それに合わせて唱歌や童謡を歌った。
オルガンを弾くのは女の先生が似合った。
戦後、大ヒットした青春映画、石坂洋二郎原作、今井正監督の『青い山脈』(昭和二十四年)には、オルガンを弾く女の先生(正確には元)が出てくる。馬野都留子(まのつるこ)という脇役の女優が演じている。
夫(藤原釜足)は女学校の先生をしている。ある夜、宿直をしていると奥さんの馬野都留子が弁当を届けに来る。夫に弁当を渡したあと、彼女はひとり、夜の誰もいない教室に行く。
そして、オルガンを弾き始める。「鉄道唱歌」や「荒城の月」。この奥さんは、結婚するまで学校の先生をしていた。だから、学校に来ると小学校で教えていた、いろんな歌を思い出すのだという。
新藤兼人監督『原爆の子』(昭和二十七年)の乙羽信子は広島の幼稚園の先生。原爆によって教え子を何人も失い、自分も被爆した。戦争が終って七年目の夏、身体がよくなった先生は園児たちの消息を確かめようと、久しぶりに広島の町を歩く。
炎天下の町を歩きながら、原爆投下の日を思い出す。その朝、先生は幼稚園でオルガンを弾いた。「お山の杉の子」。先生のオルガンに合わせて園児たちが歌う。〽むかし むかしの そのむかし……そのとき、閃光が――。
日本の歌に合う足踏みオルガン
オルガンは文明開化の時代に西洋から入ってきた。宣教師がもたらした。
戦時中の子供たちに歌われた、島崎藤村作詞「椰子の実」の作曲家として知られる大中寅二(1898−1982)は教会のオルガニストだった。
甥の作家、阪田寛夫の『足踏みオルガン』(昭和五十年)はこの楽器を愛した大中寅二を描いている。ちなみにオルガンの正式名は「足踏みオルガン」(リードオルガン)。
戦時中「国民歌謡」としてラジオで放送されてから「椰子の実」は広く愛唱されるようになり、作曲家の大中寅二の名も知られるようになった。大中はクリスチャンで、戦後も長く教会オルガニストであり、聖歌隊の指揮者でもあったという。
『足踏みオルガン』によれば、オルガンは十九世紀のヨーロッパで生まれたもので、パイプ・オルガンより新しい。大中寅二は、シンプルな足踏みオルガンのほうが、流麗華美で日本の歌には合っていると考えていたという。
赤井励『オルガンの文化史』(青弓社、平成七年)によると、明治のはじめに日本にオルガンを持ち込んだのはキリスト教の宣教師で、やがて「讃美歌」と「唱歌」が一体となることでオルガンは普及していった。だから、唱歌の作曲家の多くは教会オルガニストの経歴を持っていた。