高層ビルが立ち並ぶ以前の都心の下町、たいていの家屋の2階には木造の物干し場があり、そこから空に浮かぶアドバルーンがよく見えた。百貨店や店の開店案内だったり、新作映画封切の告知だったりと、都会の空ならではの景色が、昭和には存在した。最近では、郊外の住宅展示場の案内などで時折、アドバルーンを見ることがあるが、都会の空が狭くなり、アドバルーンの活躍の場も変わったのかもしれない。
アドバルーンには、空というキャンバスが必要なのである。
空にゃ今日もアドバルーン
~都心の空に浮かんだ鮮やかな広告気球~
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2017年4月1日号より
夜のネオン昼のアドバルーン
昭和に活躍した洋画家、鈴木信太郎(一八九五~一九八七)に、「東京の空」(昭和六年)という絵がある。
関東大震災のあと復興してゆく銀座の新しい都市風景を描いている作品だが、建物よりも何よりも、この絵でいちばん目をひくのは銀座の空に浮かんだアドバルーン。
「東京の空」とあるように、絵の半分近くを空が占める。そして、その空には大きなアドバルーンが五つも浮かんでいる。昭和のはじめの銀座には、こんなにたくさんのアドバルーンが浮かんでいたとは。
現在、東京の空にはもうアドバルーンはほとんど見られない。高層ビルが増えたために、広告気球の意味がなくなってしまった。
気球は、明治時代に偵察用として軍隊で使われていた。それが次第に広告、宣伝に使われるようになった。
大正はじめに、化粧品会社の中山太陽堂や福助足袋が使ったのが早い例だという。
当初は「広告気球」といっていたが、昭和になってアドバルーンと呼ばれるようになった。advertisement (広告)のad とballoon (気球) を付けた和製英語である。
震災後、東京に鉄筋コンクリートのビルが建ち並び、町が自動車や地下鉄の走るモダン都市に変貌してゆく時代に、夜のネオンと並んで昼のアドバルーンは、新しい広告手段として人気を呼んだ。
画家の鈴木信太郎は、そのアドバルーンに興味を覚え「東京の空」を描いた。
都市風俗の変化に敏感だった作家、永井荷風も、昭和六年(一九三一)に発表した小説『つゆのあとさき』で銀座の空に浮かぶアドバルーンをとらえている。
この小説の主人公は、震災後の東京に急増したカフェで働く、君江という「女給」。
冒頭、君江は市ヶ谷あたりにある家から、銀座のカフェに出勤する。数寄屋橋を渡って銀座に入る。
「数寄屋橋のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立留(たちどま)る気もなく立留って空を見上げた」
「広告の軽気球」はいうまでもなく、アドバルーンのこと。ちなみに、この時代、朝日新聞社の建物(昭和二年竣工)は数寄屋橋の横にあった。現在、マリオンのあるところ。当時としてはモダンな建物で、鈴木信太郎はこの五階から「東京の空」を描いた。
アドバルーンは大体、ビルの四、五階の高さに浮かんだ。
二・二六事件の空にも浮かんだアドバルーン
アドバルーンの存在が一躍、有名になったのは、昭和十一年にヒットした歌「あゝそれなのに」(星野貞志作詞、古賀政男作曲)によってだろう。
日活映画『うちの女房にゃ髭がある』(昭和十一年、千葉泰樹監督、杉狂児、星玲子主演)の主題歌。
会社員の夫が出勤したあと、妻が家でひとり寂しく夫の帰りを待っている、その寂しい気持を歌った曲で、歌いだしに「空にゃ今日もアドバルーン」とある。
美ち奴(みちやっこ)という歌手が歌って大ヒット。「あゝそれなのに」が流行語になると同時に、アドバルーンが新しい都会風景として広く世に知られるようになった。
ちなみに、この曲の作詞者「星野貞志」は、サトウハチローのこと。映画のなかで妻を演じた星玲子の亭主をもじった。