7月23日から大阪中之島美術館で「展覧会 岡本太郎」が開催される(巡回・東京、愛知)が、直前に興味深いニュースが飛び込んできた。
いまなお、人々を惹きつけ、世代を超えて共感をひろげる岡本太郎であるが、1930年代のパリで過ごした10年間が、〝芸術家・岡本太郎〟を育んだと言っても過言ではないだろう。
1930年1月、父・一平のロンドン軍縮会議の取材に同行し、マルセイユ経由でパリに渡った岡本太郎は18歳であった。二つの大戦の狭間、ファシズムがヨーロッパに暗い影を落とした激動の1930年代、芸術の分野では抽象主義やシュルレアリスムなどの前衛芸術が胎動してきた時代だった。
画廊で偶然目にしたピカソの《水差しと果物鉢》に衝撃を受け、抽象絵画の制作を開始した岡本は、展覧会で作品を発表するようになり、1937年には、G.L.M.社から最初の画集『OKAMOTO』も刊行された。岡本は帰国後の1941年11月、銀座の三越で「岡本太郎滞欧作品展」を開催したが、42年に一兵卒として中国戦線に応召、5年間を戦地で過ごした。45年の東京大空襲で、自宅のある青山は一面焼け野原となり、パリ時代の作品はすべて焼失してしまったため、1点も現存されていないものと思われていた。
ところが、思わぬところから、思わぬは発見があったのである。
1993年パリ市内に所在する〝アトリエ村〟「シテ・デ・フュザン」に居住する画家が前居住者の残したものを廃棄したが、ゴミ集積所から《作品C》をデザイナーG氏が拾得し、保管していた。さらに、94年同上の画家が逝去した際に、《作品A》《作品B》を含む遺品をフランス政府が接収。オークションにかけられ、両作品をデザイナーのG 氏が落札した。《作品A》から、漢字署名を発見したG氏は、画集『OKAMOTO』で、パリ時代の岡本を知り、岡本太郎の作品だと確信したのだ。岡本に関する資料収集や研究を行う「岡本太郎記念現代芸術振興財団」などが詳しい調査を行うことになった。
岡本太郎記念館館長の平野暁臣氏、《明日の神話》などの修復も担当した絵画修復家の吉村絵美留氏、美術史に詳しく、公私にわたるパートナーの故・岡本敏子さんとも親しかった明治学院大学の山下裕二教授らにより、3点とも同じ作者が同じような絵の具を使っている可能性があること、残された「岡本太郎」の筆跡鑑定、キャンバスの糸数が3作品とも同じであることなどから、岡本太郎が描いた可能性が極めて高いと鑑定されたのだ。
代表作《明日の神話》も、メキシコ市郊外の資材置場で野晒し同然の状態で発見され、日本へ移送、修復作業が行われたという数奇な運命をたどった作品だ。発見された3作品も一度は廃棄されかけた。3作品は、岡本の初期の作品で、「TARO」のサインがないこともふまえると、「習作」であるともいえる。
今回確認された3作品は、7月23日から開かれる「展覧会 岡本太郎」で一般公開される。30年代のパリから蘇った幻の作品が物語る、岡本太郎の〝謎〟。また一つ解明したくなる多面性ゆえの興味が尽きない芸術家の出来事である。