2020年1月1日号「街へでよう」
おでん「鍋前」のカウンターに陣取って
湯気の向こうの女将の顔をそっと伺いながら、
汁の染み方で、「とうふ、大根、キャベツ」とまず注文の第一声。
ぐびりと一口熱燗が腹に滲みわたり、
「あー今日も一日、頑張ったなあ」と独り言ち。
ひとり酒にはおでんが似合う。みんなでワイワイは大きなテーブル席で、
気取った料理屋では味わえない家庭的なくつろぎがあるのがおでん屋だ。
出汁が染みたような暖簾をくぐれば、日本の味が待っている。
冬のおでん屋行脚
~全国どこに行っても庶民の味~
文・太田和彦
銭湯とおでんでしのいだ銀座勤めの残業の日々
銀座の資生堂でデザイナーをしていた二十代は残業に継ぐ残業の日々だったが、念願の仕事だったので、定時で人の帰った静かな社内で一人、制作に没頭する時間を最も大切にしていた。しかし夜十時を過ぎて風呂なしアパートに帰っても、頼みの銭湯はもう閉まっている。仕方なく夕方近くなると会社を抜け出して近くの銭湯「金春湯」に行き、帰りは並木通りのおでん「お多幸」で夕飯をすませるのが日課になった。
「がんも、豆腐、はんぺん、大根、あと茶めし」
「はい、がんとうはんだい」
店員が復唱し、赤いプラスチック皿ですぐ出る。抜け出して来たから時間はかけられない。お多幸は五丁目ソニービル裏に本店があったが、もっぱら会社に近いこちらに通った。そのうちお多幸は銀座泰明小学校を出た名優殿山泰司の実家と知り、ファンだったので愛着が増す。
お多幸のおでんは色の濃いおつゆの味がよく染み、ご飯に合う。今は名物となった豆腐一丁をそのまま茶めしに乗せた〈とうめし〉はそのころまだなかったが、私は自分でそうしていた。夜は酒を飲みに入り、注文を受けて煮る〈タコ〉が楽しみだった。一人のときは一階カウンターの「鍋前」が特等席。大勢の飲み会は二階の大机で、注文が簡単ですぐ出るおでん屋は便利だった。持ち帰り用の赤い桶目当てに、家の土産にしたこともある。
銀座には「お多幸」「やす幸」の二大おでん屋があり「お多幸は安い、やす幸は高い」と我々は言っていた。「やす幸」のおでんは薄味上品。四丁目の「おぐ羅」は後発で、こちらは同伴族がよく来ていた。
ダイナミックに煮え立たせる関西風おでんの魅力
関西で入ったおでん屋は衝撃だった。まず種がちがう。有名な大阪の「たこ梅」で〈鯨のさえずり〉を初めて食べた。〈牛スジ〉は大阪のどこにもある大切な定番だが〈ちくわぶ〉は「それ、何でっか」と言われた。大阪でおでんを「関東炊き」と言うのは、関東で田楽を汁で煮て出しているのを取り入れ、その名になったとも聞いた。
そして出汁。東京の昆布とかつお節とはちがい〈牛スジ〉がないと始まらなく、おつゆは東京のような茶色ではなく透明に澄んでいる。京都の古い名居酒屋「神馬」は鯨の皮を油で揚げた〈鯨コロ〉で出汁をとり「これ入れな、うちのおでんにならしまへん」と言っていたが、人手難で最近はおでんはやっていない。
一番驚いたのは、東京は「おでんは煮ちゃだめ、種を動かさず、味が染みるよう温めているだけ」と、ほのかに湯気が上る静かな状態だが、関西おでんは常にぐらぐら煮立たせ、出汁をざぶりとどんどん追加し、ひっきりなしに味をみるダイナミックなやり方だ。
宗右衛門町「小多福」はその典型。一番人気の〈豆腐〉はおぼろ昆布に青葱がのり、すすめられた〈海老芋〉はとろけるようにおいしい。創業から半世紀、注ぎ足しているおつゆの艶とコクはすばらしく、そこにさっとくぐらせただけの〈菊菜〉がいい。〆は茹でたうどんにおでんつゆをかける〈細うどん〉だ。
大阪の台所「黒門市場」の、店先でぐらぐらと煮える立ち食いおでんも、その匂いに魅了された。