体を張って生きる〝オンア〟の苦悩を演じる女優
文=原 一男
雑誌¿Como le va? vol.24 表紙・早田雄二写真シリーズ第4弾より
黒澤明監督『羅生門』のヴェネチア映画祭でのグランプリをはじめ、溝口健二監督『雨月物語』、衣笠貞之助監督『地獄門』と、出演作が相次いで海外の映画祭で賞に輝いたことから〝グランプリ女優〟として、世界的にその名が知られる京マチ子。日本のいずれの女優とも一線を画した、特別区に存在していた。
そのエキゾチックなマスクと、グラマラスな肢体、陽性のバイタリティで、早田雄二氏が撮影した女優たちの中でも、洋花の色彩を放つ。
ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』で知られる映画監督の原一男さんは、小学校高学年から映画館に入り浸り、スクリーンの女優たちに、神々しい美しさを感じていたという。
中でも、京マチ子には特別な思いがあった。妖しさ、艶っぽさ、比類なき美しさに打ちのめされた少年時代の記憶を蘇らせながら、思いも新たに原一男監督が、女優・京マチ子を讃えます。
京マチ子のベスト1は、どれだ? と問われると、迷わず溝口健二作品『雨月物語』を挙げる。京マチ子の、あの妖しさ、艶っぽさ、比類なき美しさは、初見が10代のとき、そして古希になった今も、観るたびに打ちのめされる。
『雨月物語』を久しぶりに観た。以前観てから、おそらく10年以上は空いている。したがって京マチ子のシーンは、こんなだったよな、と記憶を辿ったわけだが、今回実際に観て、〝記憶の中の映像〟とずいぶん違った。アップがなかったのである。正確にはバストサイズより、ちょっと寄りのサイズが2カット、あったかな。私の記憶の中では、京マチ子の映像は、〝おどろおどろしく〟刺激的なアップなのだ。 この世のものとは思えない(死霊という設定なので当たり前か)「若狭」の、この世に恨みを残して死にきれず彷徨っている情念の恐怖感を伴った美しくも妖しい映像は、アップサイズだった。これは脳の働きがなせる不思議なところである。いや、不思議ではないのかも。私たちはスクリーンのどこを観ているかと考えてみると、実は画面の隅々までを満遍なく観ているわけではない。もっとも印象の強い部分、関心のある部分に意識を集中させて、つまり〝寄って〟観ているわけである。京マチ子の女優としての魅力が、それだけの圧倒的な吸引力を持っていることの証である。