7月8日(金)から公開されているというのに、遅ればせながら観てきました『破戒』。上映館は銀座の丸の内東映①ですぞ。だいたいミニシアター系か単館系か誰がレッテルを貼るのか知らないが、いつも出掛ける埼玉のわが街近隣のシネコンには合計50スクリーン以上あるというのに上映していないのだから、観そこなっていて当然なのです。よくぞ!この名画を東映さんは東京のど真ん中のメーンスクリーンで上映なさってくれたものである。こういう人間性の根幹に触れる映画こそ、夏休みに入った子供たちに観てもらいたいと団塊爺さんは思う次第である。
さて、島崎藤村の原作を読んだのは55年ほど前だったか。うっすら記憶をたどりながらスクリーンに向かった。厳然としてあった士農工商の階級制度は否定されたとはいえ明治に入っても、さらに穢多(えた)非人と言われ忌み嫌われた身分低き人々が寒村の外れの集落(部落)で息をひそめて生きていて、後世まで被差別部落といわれてきた。部落出身者は、世に出ようとするとその出自が大きく立ちはだかって人生の行く手を阻む。父から出自を生涯隠し通し、人を信ずるなと厳しく言い渡された主人公、小学校教員の瀬川丑松(間宮祥太朗)もまた、自らの出自をヒタ隠して生きていた。しかし日に日に身に迫ってくる差別の風潮に抗しがたく、悶々としながら人生の方途をさまよっていた時、被差別部落出身の思想家・猪子蓮太郎(眞島秀和)の影響を受ける。選挙の応援で信州小諸まで政見演説会でやってきた、猪子は「我は穢多なり、されど人なり!」と叫ぶのである。そして遂に父の戒めを破り、カミングアウトを決断するストーリーは藤村の小説よりはるかに分かりやすく、間宮の演技、表情が冴えわたっていた。
今日、子供たちにイジメの話は後を絶たない。ついこの間まで新型コロナに罹患した子供と家族は世間に目を向けられないと、丑松のようにひっそりと身を隠した。我が子にイジメと蔑みの視線が注がれるからである。途中、野村芳太郎監督の『砂の器』が浮かんできた。ハンセン氏病患者を父親に持つ主人公である。差別の根っこはいつの世もなくならないが、せめて差別する側に回らない、回りたくないなぁ、と改めて知らされる。
それにしても、本作の冒頭からどこか懐かしい日本のふるさとを感じさせてくれるのは、なぜなのか。年寄りだからか、エンドロールも終わり館内の照明が付くまで答えがでなかった。明治の時代を描いているが、昭和の名作のような映画である。
文:石川 タロー
配給:東映ビデオ