1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
プロデューサー、そして映画にとってキャスティングは大事な要素である。
ただ、何十本も映画のキャスティングをやってきて感じるのが〝絶対ベスト〟は無いということだ。台本の途中でキャストの話になることが多いが、最初のシナリオイメージ通りのメインキャストで撮影を始められたことは殆ど無い。ある時から「そういうものだ」と自分に言い聞かせ、その後は決まったキャストがベスト! と考えるようになった。これも何かの縁での出会いだと。
『私をスキーに連れてって』もそうだったし、今でもあのキャストで映画を誕生させられたことは幸せだった。
ただ、『彼女が水着にきがえたら』で三上博史さんが、自己都合で参加できないことになった時は、正直ショックもあった。
何となく、当初より『私をスキーに連れてって』の次は「海」がモチーフ。そして3作目は「車」とか……。企画を考えながら『私をスキーに連れてって』のコンビは3作共通で……と思っていたからだ。
でも俳優としての彼と付き合っていると、確かにホイチョイムービーのテイストは彼の志向には合わない。と言っても『私スキ』における彼の存在感、貢献度は大きい。『私スキ』の翌年1月ドラマ「君の瞳をタイホする!」(フジテレビ/1988)に抜擢され、大人気となり『私スキ』から「君の瞳をタイホする」をミックスして〝トレンディ〟という言葉が生まれ、月曜9時のドラマは〝トレンディドラマ〟と呼ばれるようになり、ホイチョイ映画も〝トレンディ映画〟となった。
殆ど取材を受けない馬場康夫監督の代わりに僕が雑誌「an・an」やら「POPEYE」に登場させられ、〝トレンディ〟を誌面で語ることになってしまった。本当はATG映画のようなことをやりたかった……等は、取材では語れなかった。実家(奈良)の父親からは珍しく便りがあり「カッコ悪いからやめた方が良い」のアドバイスもあった。
ある意味では三上博史さんとは志向の近いところもあり、その後『スワロウテイル』(1996)の主演等をやってもらった。