とんでもない事態を救ってくれたのは浅野忠信さんと江口洋介さんだ。
二人とは過去に一緒に仕事をしていたが、突然のオファーにびっくりしたと思う。まずは「パスポート持ってるよね?」から始まり、よく引き受けてくれたと感謝している。
シナリオ完成も遅れてしまい、本当に準備も無く、二人にはオーストラリアに行ってもらった。先乗りしていた藤竜也さんも、ハリウッドスターが来る? と思っていらしたので驚かれたであろう。藤竜也さんには『河童』に続いて出演してもらった。英語が堪能でもある藤さんには様々な面で助けていただいた。
素晴らしい企画のスタートだったが、途中からアクシデントの連続だった。
僕は、撮影を延ばした方が良いと考えたが、事務所の社長としては、「ここで撮影が出来ないと米米CLUBのスケジュールを考えれば数年先になるので……」と、何とかこのスケジュールでやってほしいとの事だった。
撮影は、ほぼ外国人のチームの中で、上手く進んだ。ほぼ、スケジュール通りにいったが、元々、製作コストは高く、興行のハードルは高かった。
評価をしてくれた人もいたが、興行的には『河童』にも届かなかった。プロデューサーとしては申し訳ない気持ちが強かった。僕は、本当に石井竜也監督はよくやったと思う。まだ2作目で、ここまでの大作を作り上げた。
あれから、27年が過ぎた。実は、今でも石井監督とは時々会っている。勿論3作目のトライだ。ただ、『ACRI』のあと、事務所は解散状態になり、<米米CLUB>も一度解散になったりした。映画も一つの要因であることは感じていたので、此方から映画の話は持ちかけられなかった。ただ、何年かして会うようになり、この数年は、幾つもの企画の話をしている。
映画での本当の石井竜也さんの才能、実力はもっと高いところにある。何とか、それを引き出すのがプロデューサーの役割であり、彼が望むなら、こちらも駆けつけたいと思う。
1996年8月公開『ACRI』そして、9月公開『スワロウテイル』。
プロデューサーの思惑通りに行かないのが「映画」というものなのか……。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。