色んな戦略は考えたが、コピーにもした「その謎は『リング』に始まり、その恐怖は『らせん』につながる」が2本立ての理由か。当時は2本立ての慣習が残っており、僕も『チ・ン・ピ・ラ』や『私をスキーに連れてって』など2本立てが多かった。今回は「意味がある2本立て」というか「2本立てだから面白い」など模索していたのだと思う。
現在はホラー映画に出演することの特殊性は薄れたが、当時は、特に女優さんは出演をためらう人が多かった。『リング』もギリギリまで主演が決まらなかった。
たまたま、雑誌「an・an」で対談が組まれ、松嶋菜々子さんと恵比寿のホテルで会った。NHK朝ドラの「ひまわり」(1996)に主演していて、新人では無いが、これから期待の女優だった。帰り際に「映画とかはやらない?」と聞いてみた気がする。
映画のキャスティングをするときに「タレント名鑑」的な本を参考にすることが多かった。年齢とか、身長が出ている。『リング』は小学生の男の子の母親役だったので、通常は30歳前後であろうか。俳優の実年齢で決めるわけではないのだが、やはり〝参考〟にしてしまう。松嶋菜々子さんは23か24歳だったように記憶している。そこでスルーしてしまっていたかも知れない。ただ、実際に僕は会っていたので、大人びた印象が強かった。30歳の役でもいけるのでは……。
結果は大正解で、その後もトップ女優として活躍してくれているのは嬉しい。ただ、撮影現場である東映大泉撮影所を訪ねた時に、彼女からこそッと「ホントはホラー映画苦手なんです~」と言われたことは今でも覚えている。
正直に言うと、東映の大泉撮影所に井戸のセットを作って撮影している風景はホラーの恐さは感じなかった。ましてや、テレビ画面からサダコが出てくるシーンの撮影は滑稽でもあった。あまりにアナログで、見ていて思わず笑ってしまった。それが本編完成時には強烈な恐怖シーンになっていた。
『らせん』チームには申し訳無いことをした。1998年1月公開は決まっているのに3か月前時点ではまだ、シナリオが出来ていなかった。もっと言えば4か月前は脚本も監督も決定できずにいた。理由は色々あったが、『リング』のシナリオが遅れ、続編とも言うべき『らせん』の着手が遅れた『リング』の謎が決まらないと『らせん』のシナリオもそれによって変わってくるからだ。フジテレビのドラマ「リング」の脚本を書いていた飯田譲治さんは、『リング』『らせん』の世界は熟知していて、脚本&監督でお願いすることにした。『らせん』の完成は公開月の1月までずれ込んでしまった。今も、スタッフには感謝している。
関連性の無い2本立てのイメージを避けようと、「1本立て×2回」という方式も議論した。月曜日に『リング』、火曜日に『らせん』と2枚綴りのチケットにして2回劇場に来ることが可能。タイムイズマネーの時代になっていたので6時から映画を二本観てもらうのは不自由なのではないか。映画館に4時間近く拘束することになる。あるいは1週間『リング』次の週『らせん』また『リング』最終週『らせん』等様々なアイデアが出たが配給・興行の東宝からあっさりNGをもらった。
映画のプロダクションということでは、ほぼ仙頭、一瀬、河井の3人のプロデューサーに任せてもらった。宣伝戦略でも、自由にやらせてもらった。
スター俳優に多く出演してもらっていたが、ポスターでは一切顔を出さない戦略にした。
ROBOTのデザイナーに、あくまでも〝イメージ〟中心でいくので、恐いぞ~という画も必要ないと。『リング』は女性の顔のイメージ、『らせん』は子どもの顔……架空の顔で日本人かどうかもわからない、まさに〝イメージ〟中心のビジュアルにしてほしい……。結果、色彩など見事なポスターデザインだったと思う。
『リング』は低予算であるのにチープさがバレなかったのは、音楽の川井憲次さんのおかげだ(「機動警察パトレイバー」等多数)。音楽が恐怖を倍増させてくれた。
正月映画明けの4週興行予定だったので、劇場からはあまり期待されて無かったように思う。「ホラー映画は当たらない」とずっと言われて来たので。
完成が12月末で試写期間もほとんど無く、ターゲットを20代のカップルにした。原作ファンは30~40歳台の男性中心とのことだったが、流石にその層が映画館に詰めかける想像が出来なかった。
イマジカでの初号試写に、製作出資もしてもらっている角川歴彦社長(当時)がいらして試写が終わり、開口一番「これは女子高生ターゲットだ!」と。ちょうど女子高生が携帯電話を持つ時代になっていて、そこに訴求して口コミが拡がっていく……と。
公開まで短期勝負だった。テレビ局はどこも絡んで無い映画なので、角川グループの援護射撃は必須だった。