公開初日の有楽町マリオンの舞台挨拶には携帯電話をもった女子高生がわんさと来てくれ、映画が終わると、我さきにと電話をかけまくる光景に出くわした。
その後、暫くして、アメリカのミラマックスから使者? が来て、中華料理を食べながら「ハリウッドでリメイクしたい」と。ロイ・リーと言い、30歳前後の韓国系アメリカ人だった。
思わず「アメリカって井戸あるの?」と聞くと「ある!」と。それまで『南極物語』や『Love Letter』などハリウッドはリメイク権を購入してくれるのだが(安く)、一向に映画化になることはなかった。案の定、ミラマックスはNGで、その話は終わったかと思ったが、なぜかドリームワークに話を持って行ったら乗ってきたと言う。しかも、それまで2~3百万円の提示が多かったのに100万ドルだと言う。
『ザ・リング(The Ring)』(2002)として、オリジナルの此方の『リング』の数十倍の製作費(67億円)をかけ、300億円前後の興行収入を上げる大ヒットになった。一瀬プロデューサーが日本で製作していた『呪怨』も『The Grudge』(清水崇監督)としてハリウッドでリメイクされ200億円を越える大ヒット作になった。因みに『ザ・リング』のヒットによりパート2を作ることになり、中田秀夫が監督した。これも200億円を越えるヒット。今のところ日本人監督してアメリカのボックスオフィス(興行収入)で1位を獲ったのはこの2人だけである。
ロイ・リーさんはその後〝リメイク王〟となり、『ダークウォーター』『南極物語』から数々の日本映画のリメイク映画を手掛け、遂に『ディパーテッド』(マーチン・スコセッシ監督/オリジナルは香港映画『インファナル・アフェア』)でアカデミー賞作品賞に輝いた。『ザ・リング』の成功でゴア・バービンスキー監督は翌年『パイレーツ・オブ・カリビアン』(2003)に抜擢されシリーズ3作を監督している。
「日本でホラー映画は当たらない……」
じゃあ、やってみるか……から始まった『リング』『らせん』により、思いもしなかった世界へ恐怖の輪が拡がることになったのである。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。