エドワード・ヤンは最初「シザース」(グーチョキパーのチョキの意)というプロットを書いてくれた。主演候補は金城武。日本でも人気で唯一とも言える中国人スター俳優。しかもエドワードと同じ台湾出身だ。監督と一緒に台北で出演交渉を行うも先方から厳しすぎる条件。エドワードから「あきらめよう……」と。役名も「タケシ」と名付けたサスペンスアクションの要素もあるこの企画はボツにしてしまった。また一からストーリーを考えるという。
時間は残されていない。数日で「Yi Yi」というまったくテイストの違うプロットをエドワードから見せられ、あまりの違いに驚いた。家族の話で、祖母が亡くなったことで、孫である少年が少し成長する、という「シザース」とは真逆のような感じのストーリー。これが『ヤンヤン 夏の想い出』である。
こんな地味な話で、カンヌ映画祭のコンペ作品に入れるのかは、僕にはわからなかった。カンヌは参加したことも無い映画祭だった。
それでも一緒にシナリオ作成をやり、キャスティングなど共同作業である。日本でも熱海の撮影をリクエストされた。
台北でクランクイン。日本からは、イッセー尾形さんの出演も決まった。撮影の最初を見届けて東京へ戻り、1週間位経ったころであろうか。エドワード・ヤンから、相談があるので台北へ来てくれと言う。
それまでの撮影ラッシュを見せられ、感想を求められるも特に問題は感じなったが、彼は「これだとカンヌで賞が獲れない」と。痛いところをついてくる。僕はカンヌのコンペティションに映画を出品したことがないので正直、わからない。何が足りないかと言うと、今の主演女優でこのまま最後まで撮影してしまうと受賞するのが厳しいと。と言っても、その女優を決めたのは監督だ。僕は両親にも会っていた。今さら……と思いつつも、監督は別のテストのような映像を見てくれと。そこには新たな女優がいて、良い感じではあった。ただ、既に数日間の撮影が始まっている段階であり、日本では、その段階でチェンジはあり得ないだろう。が、もう、監督の気持ちは固まっていた。
撮り直しのような状況になり、ただでさえアクシデント続きのプロジェクトに耐性が出来たようで「それで行きましょう!」と言ってしまった。
最初、三人の前で「エドワード・ヤン監督にはカンヌ国際映画祭コンペティションに、スタンリー・クワン監督にはベルリン国際映画祭のコンペティションに、岩井監督にはヴェネチア国際映画祭のコンペティションかアメリカアカデミー賞に!」と。今、考えると3大映画祭に対しての自分のミーハーな興味のまま、浅はかにも思うが、結果、二人は実践してくれたのである。
〝私をカンヌに連れてって〟のごとく、僕は連れて行かれた感が強い。2000人以上の前での公式上映での6~7分のスタンディングオベーション。翌日の映画雑誌星取表では『Yi Yi』=『ヤンヤン 夏の想い出』が断トツのパルムドール候補。監督もパルムドールを疑わない、自信がありそう。
ただ『オー・ブラザー』のジョエル・コーエン監督、『コード・アンノウン』のミヒャエル・ハネケ監督はじめ、ラース・フォン・トリア―、ケン・ローチ、オリヴィエ・アサイヤス、ジェームズ・アイボリー、イム・グォンテク、リブ・ウルマン……。それに大島渚、そして『花様年華』のウォン・カーウァイ監督。カンヌの常連だらけだ。
結局パルムドールはラース・フォン・トリア―監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だった。審査員特別グランプリはチアン・ウェン監督の『鬼が来た!』。我らは、監督賞。主演男優賞は『花様年華』のトニー・レオン。アジア映画が強い年だった。
スタンリー・クワン監督らと挑んだベルリン国際映画祭コンペティションで『異邦人たち』は賞を獲れなかった。一緒にベルリンに行った大沢たかおさんはオープニングパーティでヴィム・ヴェンダース監督を見つけ、話しかけていた。その隣には音楽を担当したBONO(U2)がいて、彼にも果敢にアプローチしていた。その年のオープニング作品がヴェンダース監督の『ミリオンダラー・ホテル』で、大沢さんにはその後の活躍の刺激にはなったと思う。