普段、シナリオで予算のこととか、クォリティ、規模感を考える癖がついているので、脚本が無い、構成だけのドキュメンタリー映画は新鮮だったが、難しいことも多々あった。
先頃、「SHOGUN」でエミー賞を獲った真田広之さんなら、彼が日大芸術学部にいたころからの付き合いで、40年以上の交流がある。自分しか知らないエピソードもたくさんある。『病院へ行こう』でも『新宿鮫』でも……。
そんな時、黒澤満さんが言ってくれたことを思い起こすのだった。
大学生の頃からドラマ「探偵物語」、傑作映画『家族ゲーム』を観て、そして遺作『ブラックレイン』まで一方的に観続けてきた事実はある。
また、実際には、そんなに長く付き合わなくても、優作さんから刺激を受けた人はたくさんいるはずだ。これからその俳優たちが拘りを持って生きていく……。浅野忠信さんや香川照之さんなど若い人にもインタビューに参加してもらった。もちろん、関係の深い森田芳光監督や黒澤満プロデューサーにも。
『ブラックレイン』のオーディション時のVTRもあり、共演のアンディ・ガルシアさんにはロングインタビュ―が出来た。松田龍平、翔太さん兄弟にも出演してもらった。
多くの過去の出演映画、ドラマの映像を使用したが、許諾関係は思ったより大変で、費用もかかった。それでも一度きりのドキュメンタリー映画になるなら出来るだけ、多くの作品を見せたかった。「映画俳優」であるが、テレビも「太陽にほえろ!」など印象的な作品が多数ある。
元々、大きな全国展開を予定していなかったが、配給スタッフのパッションが加わり、丸の内ピカデリーや梅田ピカデリーなど大きな劇場でも上映してもらった。
1989年11月6日没。まだ39歳だった。映画は2009年11月6日公開。没後、20年の日である。
ドキュメンタリー映画としての客観的な評価は、よくわからない。ただ、今は亡き、森田芳光監督や黒澤満さんに映画の中で語ってもらえたことは貴重だった。
出来るだけ、映画人、映画好きに知ってもらいたい願いも込めて、秋の東京国際映画祭にも参加し、上映した。優作さんのいないレッド(グリーン)カーペットも歩いた。
ドキュメンタリー映画の可能性も感じることが出来た。あれから、ますますドキュメンタリー映画のレベルもあがり、映画館で上映されることも多くなってきたことは嬉しい事である。
優作さんが亡くなって、今年の11月6日で35年。生きていた時間と、亡くなってからの時間が近くなってきた。
今でも松田優作はスターだ。過去の映画は上映され、CMにも登場したりする。
昨今、映画俳優としての大スターが少な過ぎる。これは映画界全体の問題である。松田優作ほどの個性的なスーパースターはなかなか出てこないだろう。生きていたら、きっと〝世界の優作〟になっていたに違いない。
エミー賞に輝いた真田広之さんが「この日本映画に出演したい!」と思わせる企画、シナリオを、まずは日本発でせっせと生んで行くしかないだろう。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。