「面(ツラ)で飯を食う」ことを嫌悪していたにもかかわらず、三船は「背広を一着プレゼントする」との谷口の甘言に陥落。『銀嶺の果て』(47年)のギャング役で、俳優としての第一歩を踏み出す。出番が来ても「俺はいいですよ」などと言って尻込みし、撮影機材の運搬のほうに注力したのは、〈本当はカメラの仕事がしたい〉という本音の表れだったに違いない。
このとき、ロケ地の白馬で仕事を共にしたのが、当時はペーペーの助監督だった岡本喜八である。クルーが泊っていたのが成城学園の山小屋(註4)というのも実に因縁めいているが、その後、岡本と送った成城の‶素人下宿〟での共同生活を経て、三船は生涯、成城に住み続けることとなる。
ちなみに、この下宿(家主はT氏)で三船が仕立てたのが、軍隊毛布(目撃した岡本によれば、アメ横で仕入れたもの)製のコートとズボン。この上着は、やはり黒澤脚本による谷口監督作『吹けよ春風』(53年)で、気の好いタクシー運転手役の三船が自ら着用しており、長男の史郎さんによれば、これが数ある出演作の中でも最も素の父親(三船)に近い役だとか。
それ以前から、やはり成城北口の「ブリキ屋」で谷口と下宿生活を送っていたのが黒澤明だ。『銀嶺の果て』の映画の編集を手伝っていた黒澤が、フィルムの中で躍動する三船に惚れ込み、自作『酔いどれ天使』(48年、これまたヤクザ役)に起用したことで、三船の‶悪役〟人気は急騰。全身から放たれる凄みや野獣性、その鋭い眼光は戦争体験と無縁であるはずもなく、そういう意味で三船は、まさに〝戦争が生んだスター〟と呼ぶべき存在であった。
こうして俳優を続けざるを得なくなった三船は、『羅生門』(50)出演を前にして、ニューフェイスの同期生・吉峰幸子と結婚。初めて自宅を構えた地は、なんと「成城町777番」であった。(この項続く)
(註1)殿堂入りした日本人俳優は、早川雪洲とマコ岩松という米国で活動した二人のみ(例外はゴジラ!)。三船の星型プレートは、チャイニーズ・シアターの斜向かいという、誰よりも条件の良い場所にある。
(註2)『SW』のオファーを断ったのは、オビ=ワンを悪役と誤解した三船のLAエージェント、高(たか)美以子氏。三船は常々、「俺は悪役はやらないからな」と高氏に念押ししていたという。
(註3)空きが出たら撮影部に引っ張るべく、三船を補欠合格に導いたのはカメラマンの山田一夫。このときの恩義から、三船はのちに山田を自身のプロダクションに迎えている。
(注4)舞台となった山小屋「ヒュッテ・タニサワ」(谷口と黒澤の合体ネーミング!)は、谷口が在籍した早稲田大のヒュッテで撮影された。
たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝映画に親しむ。黒澤映画、クレージー映画には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に近い成城大を選択、卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画文筆を中心に活動。『七人の侍』など、日本映画のテーマ曲を新録したCD『風姿〜忘れがたき男たち』(ラッツパック・レコード:5月発売)では作品・楽曲紹介を担当。近著として、『今だから! 植木等』(今夏発刊予定)を準備中。