1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
今回は、黒澤映画の傑作『生きる』(52)と成城、祖師ヶ谷大蔵の意外な関わりの第二回目。映画の舞台を特定することが少ない黒澤明監督だが、いくつかのスタッフによる証言も残っており、よくよく画面に目を凝らせば、ロケ現場の痕跡がわずかに残っていることもある。
胃癌で余命半年と知り、生きる目的を失った渡辺勘治(志村喬)は、居酒屋で酒を飲むくらいしか気を晴らす術を知らない。脚本で「メフィストテレスみたいな」と表現される小説家(伊藤雄之助)と出会う、居酒屋「ひさご」は、内部こそ撮影所内に設けられたセットで撮られているが、角筈(旧淀橋区、現在の新宿)の停車場をモデルにしたというその外観セットは、驚くなかれ、東宝撮影所旧正門脇に住む大道具担当・H氏(註1)の自宅脇に造られたものであった。
「ひさご」のオープンは、下掲写真の右手突き当りにある二階建て家屋の脇に造られ、電車の線路はやはり右側の植え込み部分に設えられた。写真手前は撮影所の正門(右奥が噴水と第1&第2ステージ)だったところとなる。これも村木与四郎氏の証言により判明したものだが、筆者は当地に現在もお住まいのH氏の奥様とお嬢様に聞き取りを敢行。当該写真をお見せしたうえで、フィルム画像に写る「ひさご」の二階部分は、確かにかつてのH邸のものとの回答を得た。ご自宅をセットに改造してしまった方など、Hさん以外には絶対にいらっしゃらないだろう。映画では一瞬しか映らないが、かなりしっかりと作り込まれたロケセットで、黒澤映画の美術へのこだわりがよく見て取れる。