この昭和の大ヒット曲のリリースが1957年(昭和32)7月ということで、あらためて66年間を振り返りたくなった。当時小学2年生の東京の片隅に住む筆者には「有楽町」が一体どこにあるのか知るはずもなかった。それにも拘わらず、66年も経った今でもイントロと1番の歌詞だけは覚えていて口ずさめるような歌はそう多くない。この楽曲がなぜ長く歌い継がれてきたのだろう。筆者と同世代のニューミュージックの旗手、井上陽水もカバーしていたことを思えば、団塊の世代にとって記憶に残る楽曲の上位ランクに位置しているに違いない。何度も言うが、この時筆者はマセてはいたが、小学2年生。東京の下町育ちにとって、有楽町とそこから広がる銀座の妖しい街灯りなど想像もできない年齢だ。ビルのほとりのティールーム? 小窓にけむるデパート? 雨も愛しそうに甘いブルースを歌う? シネマはロードショー? まぁ、年頃ならそそられて今からでも京浜東北線に乗って行きたくなる有楽町なのである。解説などいらぬ作詞だが。
「ビル街のほとり、ティールームの一隅で貴女を待っている。先ほどから小雨が降り出している、傘を持っていればいいが、濡れて来ないか気にかかる。甘いブルースのような愛しい雨音、小窓にけむって見えるデパートの明かり、今日のデートはロードショーにしようか、いつもの合言葉は有楽町で逢いましょう」てか!――これが都会の大人の男と女なのか、と遠い大都会への憧れと大人の男女のイメージが重なっていたのだった。フランク永井の低音の囁くような歌唱もまた、デートを前にしながら落ち着きはらった大人の男の魅力を醸し出していた。
この年のシングルレコードの年間売上げ第一位を記録し、歌い継がれてフランク永井の代表作となり、ロングセラー曲になっている。ちなみに、作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正は、昭和30年代には数多くコンビを組み、『東京の人』(昭和31)、『哀愁の街に霧が降る』(同)、『東京午前三時』(同)、『西銀座駅前』(昭和33)、『東京ナイトクラブ』(昭和34)など、都会的なムードを盛り上げようとする楽曲を続けざまに世に送っている。敗戦後の復興途上の日本は、まず東京から、という国策にでも沿っていたのだろうか。世は東京オリンピックに向けて明るい未来が開けてくるような時代だった。