しかし、「あの歌はデパートのそごうの宣伝キャンペーンソング」ということは当時から広く知られていた。大阪発祥の百貨店そごうが、はじめて東京進出にあたって選んだのは有楽町駅に隣接する読売会館。猥雑な街に立つそごうは、高級化をイメージする宣伝の必要があった。開局4年目の日本テレビを巻き込み、自社提供の音楽バラエティー番組「有楽町で逢いましょう」の放送開始。続いて芸能雑誌『平凡』で同名の連載小説もスタートし、さらに全盛時代の大映が、京マチ子・菅原謙二・川口浩・野添ひとみらオールスター・キャストでラブロマンス映画を制作した。フランク永井も出演して主題歌を歌いもちろん大ヒットした。今でいうメディアミックスではあったが、宣伝臭ぷんぷんと分かっていても大成功を収めたプロジェクトとして記録されている。
それまでの有楽町界隈は新橋からのガード下につづく闇市や粗悪な安酒を売る酒場(カストリ横丁、のちにすしや横丁)が軒を連ね、米軍兵士を相手の娼婦が立っている猥雑な街であったことは様々な記録が証明している。廃墟と化した東京に焼け残ったGHQの本拠(第一生命ビル)を中心に、周辺の建物は進駐軍兵士たちに占拠され、敗戦の屈辱にあっても有楽町一帯はアメリカ文化に華やいでいったことだろう。しかし一方で、戦後初のベストセラーと言われる衝撃的な小説『肉体の門』(原作・田村泰次郎)にも描かれたように頽廃の街でもあった。また忘れてはならないのは、駅前のランドマークだった日本劇場の5階小劇場の日劇ミュージックホール。この人気の劇場の丸い壁に貼られたトップレスのダンサーたちのポスターが記憶に残る。戦後の抑圧から解放されたギラギラとした目を光らせた大人たちがたむろしていた有楽町、そこから広がる銀座という街。「有楽町で逢いましょう」と日本中が歌った昭和の繁華街は確かに大人の出掛ける遊び場だったのだろう。
この危ない土地柄に筆者がはじめて足を踏み入れたのは、「有楽町で逢いましょう」を鼻歌交じりにするようになった中学生になってからのことだった。そろそろ『平凡パンチ』が創刊され、街にはIVYリーガーもどきのみゆき族がわがもの顔をしはじめた頃、筆者もまた粋がって有楽町を闊歩し始めていたのだ…。
実は現在、仕事柄、毎日のようにJR有楽町駅を乗り降りしている。かつてのそごうデパートは大手家電量販店になってすでに20年以上が経ち、中央東口側のかつての闇市エリアは「東京交通会館」に集約され、後にも残っていたバラック建物も再開発が済んで、今や〝愛しや〟ならぬ「ITOCIA」の名の複合商業施設のビルが聳えたっている。振り返れば、東京の中でも早くからめまぐるしく変貌を続けているのは有楽町ではないだろうか。
今は昔、「君の名は」の数寄屋橋は1958年外濠の埋め立てによって撤去され、日劇と朝日新聞本社が解体された跡地に、1984年有楽町マリオンが出現。その数寄屋橋側に、「有楽町で逢いましょう」の1番歌詞が女流書家・柳田青蘭の書によって石碑に刻まれ生垣のなかに建立されている。北側の都庁が移転した跡地には、東京を代表する巨大なコンベンションセンター「東京国際フォーラム」ができて久しい。時代の変化に敏感に、常に先端を行き、度重なる変貌を遂げて人々を憧れとともに引き寄せてきた街、それが有楽町なのである。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫