2023年4月23日に幕をあけた〝チューリップ〟の「50周年記念ツアー」。府中の森芸術劇場を皮切りに、広島、岡山、大阪、富山、東京、鹿児島、長野、愛知、福岡、兵庫、宮城、山形、秋田、群馬、栃木、長崎、熊本、埼玉、広島(福山市)、北海道、福島、神奈川、東京と周り、7月15日、メンバーの出身地福岡で幕を閉じる予定だったが、アンコール公演が決定した(7月7日)。コンサートがメンバー4人のうち3人が70歳以上、リーダーの財津和夫は75歳。財津は自虐的に「すっかりジジイバンドになってしまいました」とファンを笑わせるが、どこの会場もチケットは完売だ。
沖縄返還、日中国交回復の記念でパンダが来日し、札幌冬季オリンピックの開催など、高度成長時代末期の1972年に「日本のビートルズになる」という夢を持った若者5人が博多から上京した。メンバーの入れ替えや途中解散もあったが、半世紀を経たバンドが全国ツアーを行い、ファンと再会できるということは夢のような話だ。根強いファンに長い間愛されてきた証なのだろう。
チューリップには、「心の旅」「青春の影」「サボテンの花」「切手のないおくりもの」など数々のヒット曲があるが、遅ればせながらチューリップを知ったのも、なおかつマイベストも「虹とスニーカーの頃」なのである。ラジオから流れてきたこの曲は、一瞬で惹き込まれるほどインパクトが強かった。1979年7月5日にリリースされた「虹とスニーカーの頃」は、チューリップ16枚目のシングルだ。
1972年6月5日、シングル「魔法の黄色い靴」でデビューしたが、それ以前は、福岡の伝説のライブハウス「照和」に出演していて、福岡では有名なアマチュアバンドだった。自主制作したレコードが2000枚も売れ、噂を聞きつけた複数のレコード会社から声がかかった。意気揚揚と「魔法の黄色い靴」を手に、財津は東芝レコードのディレクター新田和長を訪ねる。新田はのちにファンハウスを設立し、オフコース、稲垣潤一、小林明子、辛島美登里などの曲をプロデュースする会社になったが、当時のメンバーの中に新田と親戚関係がいたのだ。レコーディングには異例の16時間を費やし、業界の関係者には評価が高かったが、売上げは芳しくなかった。続く「一人の部屋」も不発で、次がだめなら「プロをあきらめる」という意気込みで出したのが、「心の旅」(73)だった。メインボーカルは姫野達也が担当し、汽車のロマンが多くの人の心をつかんだ「心の旅」は、オリコンチャート1位も獲得し、チューリップは全国区のスターになった。その後「サボテンの花」(75)がヒットチャートをにぎわし、日本を代表するライブバンドへ成長したがその後しばらく鳴かず飛ばずの状態で、次のヒット曲が欲しいという焦りがあった。そこで一念発起した財津が「ヒットを狙って練りに練って書いた」というのが「虹とスニーカーの頃」だった。