「花嫁」がリリースされた1971年(昭和46)がどんな年だったのか。この昭和のフォークソングの名曲中の名曲と確信しているボクにとっても人生のエポックメーキングとなったこの年を、あらためて振り返りながら、「はしだのりひこ(端田宣彦)とクライマックス」の「花嫁」という楽曲を聴き直してみたくなった。
かすかな記憶をたどってみると、前年の大阪万博という祭の後の静かな年のようにも思えるが、(政治経済の出来事は措くとして)、ラジオのニッポン放送では糸居五郎が「50時間マラソンジョッキー」を実施したし、GS「ザ・タイガース」の解散コンサートが日本武道館であった。「マクドナルド」が銀座に日本一号店を開業、大行列がニュースになった。テレビ公開オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の放映を開始したのもこの年だ。一つだけ世界の中の日本という視点で見れば、アメリカのドルと金の交換停止が発表され世にいうドルショックが勃発、間もなく日本の円は固定相場から変動相場制に移行し、長く1ドル360円だった円は、瞬く間に200円台になっていった。海外旅行が行きやすくなり為替問題がわれわれ庶民の生活に直結していることを意識するようになった瞬間だった。映画界はいよいよ低迷し、日活はロマンポルノと称してアダルト映画に活路を求めて第一作『団地妻 昼下がりの情事』を公開、また大映はこの年の暮、倒産した。
さて、本題の端田宣彦は、ザ・フォーク・クルセダーズの一員で「帰って来たヨッパライ」(コモレバWEB既報)は大ヒットしたが、加藤和彦、北山修らとともに予定通り解散、間髪入れず、杉田二郎らと「はしだのりひことシューベルツ」を結成した。1969年(昭和44)1月、「風」(作詞・北山修、作曲・端田)を発表、いきなり累計80万枚を売り上げる大ヒットを記録し、何とこの年の第11回日本レコード大賞新人賞を獲得する(最優秀新人賞は「夜と朝のあいだに」のピーター)。だが、メンバーの井上博の死去によって、わずか1年余りのグループ活動は解散。再び、「はしだのりひことクライマックス」として藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟らを率いて、ファースト・シングル「花嫁」をリリースする。発表間もなく、2月15日、22日付のオリコン週間ヒット・チャートで2週連続第1位を獲得、同年の年間ヒット・チャートでも第7位を記録した。累計売上はミリオンセラーを樹立している。暮のNHK紅白歌合戦にはメインボーカルは女性ながら白組で初出場。端田宣彦は常に大ヒットの楽曲とともに存在していたのだった。
ちなみに、1971年の同番組の初出場組を列挙してみると、例年より数が上回るばかりか実力者揃いだったことに驚かされる。彼も彼女も紅白初出場の時代があったのだ。南沙織「17才」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、加藤登紀子「知床旅情」、五木ひろし「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子「わたしの城下町」、はしだのりひことクライマックス「花嫁」、本田路津子「一人の手」、堺正章「さらば恋人」、渚ゆう子「京都慕情」、宝塚の男役トップスターだった真帆志ぶき「嘆きのインディアン」。