昭和45年(1970)11月25日午後1時を回ったころ、市ヶ谷にあった大日本印刷本社の校正室棟は騒然としていた。上空には数台は飛んでいると思われる取材ヘリコプターの轟音が響いていた。テレビが設えてある新聞社系の某週刊誌の校正室は編集部の連中が慌ただしく出入りしている。何が起きたのか、起きているのか。テレビを覗き見すると印刷所とはほぼ隣の「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」(現防衛省)、東部方面総監部2階のバルコニーで、制服に身を固めハチマキをした紛れもない三島由紀夫が何やら叫んでいる映像が目に入った。その日のことは50数年経った現在まではっきりと記憶にある。
すぐにでも自衛隊駐屯地を目指したかったが、ボクは新興雑誌のアルバイトに毛の生えたような使いっ走り社員。ゲラが上がって、佐藤栄作首相の長期政権に待ったをかけていた三木武夫のインタビュー記事の校正紙を、麹町あたりの自宅(?)だったか事務所に届けねばならなかった。鳴りやまない上空のヘリの轟音の中、三木武夫の表札を探しながら歩きまわった。その間、自衛隊員を前に決起の檄を飛ばした後、三島由紀夫は割腹におよんでいたのだった。世にいう「三島事件」である。
すでに陽も落ちかけていた帰途、市ヶ谷駅の売店に夕刊紙の墨ベタ白抜きの文字が躍っていた。「三島由紀夫、割腹自決!」、なぜか、わなわなと身体が震えた。身体中の力が抜けたようだった。そして、これだけは何度も自問したが未だに不明なのは、その瞬間「圭子の夢は夜ひらく」の一節が口を衝いていたのだ。藤圭子という自分より二つも下の、デビューしたての演歌歌手のくぐもったかすれ声、人生を諦めたような投げやりな歌唱が、不思議なことに帰宅を急ぐ人々でごった返す市ヶ谷駅の雑踏で聴こえてきたように思えた。「十五、十六、十七と…」というあのフレーズとメロディーとともに、私の人生暗かった、とボクは口ずさんだ。ネオン街の陰で生きる女の悲しい情景とそれまで暗い人生を辿ってきた不良少女の半グレ的な歌詞が、その時のボクの心情になじんでいたのかも知れない。世は70年安保の時代、大学紛争で物情騒然としていた社会背景のなかで、国家権力と対峙したように見えた三島の自決は厭世的な気分を加速させたのだろうか。ボクはといえば自らはヘルメットも被らないちゃらんぽらんの傍観者であり、割腹という最終手段に驚愕し興奮してオロオロするばかりだった。「右も左もない、そうまでして国を憂える男がいるのか!」という思いと、自らは成す術もない絶望感が、「私の人生暗かった」に重なったのか。
一方でそれまでの全共闘は、学部やセクトを越えて全国100校以上に広がる連合体だったが、次第に内ゲバとセクト間の抗争に嫌気して〝思想転向〟してゆく連中を冷ややかに眺めていた。この年の3月、赤軍派によるよど号ハイジャック事件が起こり、その後に連合赤軍による内ゲバ殺人、リンチ事件、あさま山荘事件へと続いていき、次第に大衆の支持を失っていったが、同世代の若者たちは、国家権力に対する無力さと虚無感に打ちひしがれながら、「圭子の夢は夜ひらく」を耳にしたのだった。かつて60年安保闘争の時代に、西田佐知子が歌った「アカシヤの雨がやむとき」の廃頽的な詩が受けて大ヒットしたことと重なった。
思えば昭和45年の歌謡界は、藤圭子で始まり、藤圭子で終わったような一年だった。明と暗が交錯する激動の年で、3月大阪万国博覧会が華々しくスタートし、歩行者天国が始まり日曜日の銀座通りは〝ノー天気〟な人々が繰り出した。だが、戦後日本の経済成長とともに工業化による公害問題などの歪みが顕在化していた。そうした社会情勢は鬱屈した反体制のエネルギーとなって、あの暗く低いトーンの藤圭子の演歌は〝怨歌〟として共鳴していった。演歌でも、艶歌でもなく怨歌と名付けたのは五木寛之だった。