休みの日は午前と午後、お茶を飲みながら家族でたわいもない話をするのが習慣だった。日本テレビの「スター誕生!」で岩崎宏美が歌うのを母や祖母と観ながら、「歌、上手な人だね」と話したことを思い出す。市松人形のような髪型をした岩崎が「二重唱(デュエット)」(1975年4月25日)でデビューすると、「この子はいい歌い手さんになると思ったわ」と母がぽつりと言った。
シングル2曲目の「ロマンス」(75年7月)、3曲目の「センチメンタル」(75年10月)ではオリコン1位を獲得し、この年の新人賞を多数受賞した。すでに、同学年の森昌子、桜田淳子、山口百恵は「花の中三トリオ」と呼ばれ、そのまま「花の高一トリオ」となっていたが、同学年の岩崎はそれには加わらず、歌唱力を売り物にしていった。オリコン1位になった「ロマンス」を改めて聴くと、16歳の少女が歌っているとは思えない。高音でも力まず滑らかな歌いぶりは、これ見よがしなところがなく、自然だ。小学校から歌のレッスンに通い、その後「スタ誕」の審査員もつとめていた歌手で声楽家の松田トシに師事した岩崎は、天性の歌唱力に加え表現力を身につけたに違いない。
同じく「スタ誕」で審査員をしていた、作詞家・阿久悠や、作曲家の筒美京平にも大切にされた。特に阿久悠はデビュー曲の「二重唱(デュエット)」から「シンデレラ・ハネムーン」まで14曲連続、アルバム収録を含めると60曲もの詞を提供した。作詞した曲については数えたことがないとインタビューで語っているが、約5000曲と言われている。その中でも60曲というのは多い。そのうえ阿久悠は、岩崎のレコーディングには必ず立ち会ったという。
阿久悠は、歌謡曲のみならず演歌、ポップス、さらに「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメソングまで幅広いジャンルを手がけた。そのなかには、「また逢う日まで」/尾崎紀世彦(71)、「北の宿から」/都はるみ(76)、「勝手にしやがれ」/沢田研二(77)、「UFO」/ピンク・レディー(78)、「雨の慕情」/八代亜紀(80)と、日本レコード大賞に輝いた5曲をはじめ、ヒット曲は枚挙にいとまがない。仕事場でひたすら書き続けなければ間に合わないだろうに、そんな忙しい作詞家自らがレコーディングに立ち会うというのはなかなかできることではない。阿久悠にとって岩崎宏美は、手塩にかけた大切な歌手だったに違いない。