この楽曲が有馬三恵子、鈴木淳の〝おしどり夫婦〟の共同作業であったことは、昭和歌謡ファンだった友人から聞かされたのはだいぶ後になってからだった。あなたが噛んだ小指が痛いのは、あなたのせいよ、それでもすぐに会いたくなるの…とは何と妖しい含みのある女心なのだろう。同郷の夫、鈴木淳は音楽雑誌の編集者だったが、妻との共作で「小指の想い出」を作曲し職業作曲家として認知されたという。有馬とは後に離婚するが、ちあきなおみ、八代亜紀、黒木憲、田川寿美、椎名佐千子らの演歌の楽曲提供によって押しも押されもせぬ作曲家となったことは知られている。
有馬三恵子もまたヒットメーカーとしての道をひたすらに歩んでいる。1971年(昭和46)、南沙織のデビュー曲「17才」の作詞を手がけて54万枚をヒットさせ、以降、南の引退する1978年(昭和53)8月21日発売の実質的ラストシングル「Ms. (ミズ)」まで、作曲家・筒美京平と組んで多くの楽曲の歌詞を書いている。その他にも有馬の作品の代表的なヒット作には、石野真子「めまい」、金井克子「他人の関係」、布施明「積木の部屋」など枚挙にいとまがない。
「小指の想い出」のヒット以後、三人娘から次第に独り立ちしてゆく伊東ゆかりの活躍はつづいた。前述の「恋のしずく」、「朝のくちづけ」(68年)、「知らなかったの」(69年)と立て続けにヒット曲を飛ばす。この頃、巨人軍選手の柴田勲との交際が話題となり、一時は結婚話まで浮上した。伊東ゆかりが大人になって、「小指の想い出」でまるで再デビューしたように思えたのは、すっかり垢抜けた都会的な女性となってマイクの前に立ったからだった。1969年には映画『愛するあした』に主演、この年は第20回NHK紅白歌合戦の紅組の司会を務めるほどの人気歌手だった。
しかし、1970年に渡辺プロダクションを離れて独立。1971年には同じ渡辺プロダクションから小柳ルミ子と天地真理、小柳と天地の狭間に沖縄県出身の南沙織がデビューし次世代の〝新三人娘〟が事実上誕生するなど、中尾、伊東、園の三人娘のユニットとしての役割は自然と影が薄くなっていった。1971年に「誰も知らない」がヒットするものの、大手プロダクションの後ろ盾を失ったことで流行歌手として厳しい世間の風に当たったことだろう。この年、歌手で俳優の佐川満男と結婚、出産(現在歌手の宙美)、そして数年後に離婚を経験している。20代後半になって一時期低迷し、雌伏の期間を経てきた伊東ゆかりは、TBSの音楽番組『サウンド・イン”S”』(1977年~1981年はメイン司会)が一つの転機となって、再び〝大人の歌手〟としてカムバックする。もともと歌唱の実力は定評があり得意とする洋楽を中心とした構成で、時には自らもゲストとデュエットしつつ、エンディングで世良譲のピアノにのせスタンダード・ナンバーを歌い上げていた。
伊東ゆかりを語るとき、人生の有為転変を思う。11歳でレコード・デビューを遂げてから、しばらく鳴かず飛ばずの十代を経て、三人娘の騒々しくも華やかな時代から二十代で大ヒット、NHK紅白歌合戦出場11回、絶好調から再び雌伏の時を経験し、今や実力派歌手として、人生の酸いも甘いも噛み分けた70代を迎えてもなお鮮やかに歌い続けている。同世代にとっては、輝けるスターなのである。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫