シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
1972年(昭和47)2月3日に開催された札幌冬季オリンピックのテーマソング、「虹と雪のバラード」がよみがって来たのは、昨年の暮、横須賀のドブ板通りで白鳥英美子の手形レリーフを見つけたことからだった。全長約300メートルのドブ板通り商店街は、米海軍基地も近く、スカジャンの発祥地としても知られている。海軍カレー、ネイビーバーガーなどのお店が並び、日本とアメリカの文化が融合した独特の雰囲気が漂う通りだ。横須賀と所縁のある俳優や歌手、スポーツ選手、指揮者たちのナンバー付の手形レリーフは、街歩きを楽しませ商店街を活性化させるための一つの施策なのだろう。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を歌った宇崎竜童と作詞家の阿木燿子、「横須賀ジャズドリーム」の常連である日野皓正、阿川泰子、ジョージ川口、さらに歌手の渡辺真知子、俳優の石立鉄男、田島令子、スポーツキャスターの出光ケイら横須賀市出身のものある。ちなみに1番は王貞治、2番は作曲家の団伊久磨。そして見つけたのが「47番 白鳥英美子」だった。そこで初めて、フォークソングデュオのトワ・エ・モアの白鳥英美子が横須賀市の出身であることを知った。
ギターを抱え、Gパン姿で歌う白鳥はハスキーで伸びのある声の持ち主だった。隣の長身の男性は、芥川澄夫。温かみのある低音は心地よく耳に入ってきた。二人は、渡辺プロダクションの所属タレントが連日出演する画期的なライブスポット、「メイツ」の出身だ。当時そこには、看板スターの布施明、梓みちよなど大御所といわれるような歌手がいた。白鳥が「メイツ」で歌うようになって二年目の頃、「あの背の高い男の子(芥川)とカウンターで歌っている髪の長い女の子(白鳥)の二人を組ませたら面白いんじゃないか」というレコード会社のプロデューサーの一言で、二人はデュオとして練習を始めた。そして、レコード会社、プロダクション、作曲家の人たちを前にして3曲を披露すると、「実にいい、これは絶対いける!」と太鼓判を押され、瞬く間に、「或る日突然」(1969年5月10日発売)でデビューすることになった。作詞・山上路夫、作曲・村井邦彦である。デュオの名前「トワ・エ・モア」は、フランス語で「あなたと私」を意味する。
トワ・エ・モアらしいスタイルを印象付けるために、段違いの脚立に座って歌った。ギターを抱えて二人で立つよりも見栄えもよく、そのスタイルは定着した。テレビに出演し、加藤和彦やはしだのりひこなどと一緒に全国ツアーにも参加、各地でコンサートも開いた。サイン会に並ぶファンも徐々に増え、「或る日突然」は、週間オリコンチャート最高4位を記録した。さらに翌年には「空よ」「初恋の人に似ている」「誰もいない海」とヒット曲が続き、大忙しの人気スターになっていった。
そして、デュオがもっとも充実していた2年目の1971年8月25日、札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」をリリースする。作詞は札幌市在住の河邨文一郎(かわむらぶんいちろう)、詩人でもあり、札幌医科大学の整形外科医だった。余談だが、医師から作家に転向した渡辺淳一は教え子の一人だ。河邨の歌詞に、村井邦彦が曲をつけ、編曲は川越守が担当した。「虹と雪のバラード」は格調が高く、それでいて誰にでも親しみやすいメロディで、オリンピック開催の頃には大ヒット。多くの人の心に響き、単なる流行歌でなくその時代を背景にした楽曲として、忘れがたい名曲となった。後に高校の音楽の教科書にも載り、ずいぶん経ってからだが筆者も合唱で歌った。