現在も毎年全国でコンサート・ツアーを実施し、東京では国際フォーラムや中野サンプラザで開催している舟木一夫。2023年は、7月2日に中野サンプラザが閉館するということで、中野サンプラザでのラスト公演として「舟木一夫コンサート2023~さようならサンプラザ」と銘打って開催された。サンプラザは多くの歌手たちがコンサートを開催した、歌手にとっていわば聖地のような場所で、舟木も毎年、サンプラザのステージに立っていた。ロビーにはコンサート開催を祝う花がいくつも飾られており、その中に、西郷輝彦ファンクラブから贈られたものがあった。他の歌手のファンクラブから花が贈られるのは、異例なことではないだろうか。
コンサートは2部構成で、Part1は、「輝さんのおもかげ」として、すべて西郷輝彦のヒット曲で構成されていた。デビュー曲の「君だけを」から始まり、「恋人ならば」「星娘」「涙をありがとう」「十七才のこの胸に」「潮風が吹きぬける町」「チャペルに続く白い道」「初恋によろしく」「星のフラメンコ」「青年おはら節」の全10曲をフルコーラスで披露した。時折、上を仰いで、まるで西郷輝彦に「輝さん、聞こえるかい」と語りかけているように見えた。西郷輝彦は2022年の2月に亡くなり、本年3回忌を迎えた。
実は、西郷輝彦が芸能生活55周年を迎えるとき、その記念コンサートが中野サンプラザで開催されることになり、ゲストとして舟木一夫が出演することも決まっていたが、コロナウイルスの感染拡大により中止を余儀なくされた。翌年、再びコンサートが組まれたがコロナ禍ということで、またしても中止せざるを得なかった。そして、感染拡大もある程度の収束が見え始め、いよいよ今度こそは実現かと思われたとき、西郷自身が闘病状態にあり、ついに実現がかなわなかった。西郷とは互いに同じ時代を生きた同士、盟友として、互いに心を通わせ合っていた舟木には、西郷の無念さが痛いほど理解できたに違いない。それが、中野サンプラザでのラストコンサートで形になったのだと思える。55周年のステージを共に祝えなかったことも心残りだったに違いないが、舟木としての西郷への〝ありがとう、そしてさようなら、また逢う日まで〟のメッセージだったのかもしれない。
曲の合間には、「輝さんは背が高くて、顔が小さくて、脚が長く、僕に勝ち目はなかった」と西郷の印象を語り、会ったときには挨拶代わりにいつも西郷の太くて凛々しい眉を触らせてもらっていたというエピソードなどを披露していた。
西郷輝彦は、東京オリンピックの開催で街が大きく様変わりを見せた1964(昭和39)年2月に「君だけを」でクラウンレコードからデビューした。これで、先にデビューしていた橋幸夫、舟木一夫と共に昭和歌謡の〝御三家〟が出そろった。さらに、前年の10月にデビューしていた三田明も加えた〝四天王〟が歌謡界を牽引する時代を迎えることになった。64年の日本レコード大賞新人賞を都はるみと共に受賞し、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。64年の初出場組には、三田明、ボニー・ジャックス、岸洋子、九重佑三子、「愛と死をみつめて」で同年のレコード大賞を受賞した青山和子らがいる。
若い世代にとっては、西郷輝彦と言えば、歌手というより俳優としてのイメージが強いかもしれない。西郷はデビューの年には同名ヒット曲の映画化『十七才のこの胸に』で、映画デビューも果たし、佐田啓二、長門裕之、八千草薫、池内淳子、桑野みゆき、杉村春子、栗原小巻らが出演したNHKの大型ドラマ「虹の設計」にもレギュラー出演している。当時の人気歌手同様、ヒット曲が次々と映画化され、『涙をありがとう』『星と俺とできめたんだ』『涙になりたい』『恋人をさがそう』など、日活での映画が記憶に残る。思い切りのいい演技で、アクションも様になり、表情やポーズの決め所を知っている、そんな印象だった。つい先日も、チャンネルNECOで『涙をありがとう』『傷だらけの天使』『星のフラメンコ』が放送されていた。舟木の言葉通り、顔が小さく、脚が長く、薩摩隼人らしい凛々しい眉のカッコいい現代青年だった。テレビでは「どてらい男(ヤツ)」の主演をきっかけに、ある時期から俳優業に重きをおくようになり、遠山金四郎を演じた「江戸を斬る」シリーズ、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」「毛利元就」「葵 徳川三代」「武蔵 MUSASHI」、21作続いた火曜サスペンス劇場「警部補 佃次郎」シリーズ、「ノーサイド・ゲーム」など、時代劇から現代劇まで幅広く活躍した。舞台出演も多く、師事する森繁久彌と共演した『蘆火野』では菊田一夫演劇賞を受賞している。