高校の同級生の中でも親しかった、岡誠がいた。「おか まこと」だから、皆が「オカマ」と呼んだ。端正な顔立ちだが、けっしてオカマっぽいわけではなく、むしろ無口で近寄りがたかった。その彼を慕って、というよりぞっこん惚れ込んでいたのが、カオルちゃんだった。オカマのことになると同級だのに姉さん女房然として、周囲の視線など気にせずあれこれ世話を焼いていた。カオルちゃんは、東京・赤羽の老舗の料亭の娘で、女子高生にしては世間慣れしていて、ボクとオカマと、そしてボクの彼女のユリの4人が一緒にいると、カオルちゃんが常に姐御のように仕切っていた。カオルちゃんとユリは大親友で、ボクとオカマも親友だった。ちょうど美樹克彦が歌唱した「花はおそかった」がヒットし始めていて、何かというと3人は、「カオルちゃん、おそくなって、ごめんね」と冷やかして笑った。
4人の高校生は仲良く一緒によく遊び、よく出掛けていたが、しかし長くは続かなかった。突然オカマの付き合いが悪くなったのだ。3人で遊びに行った彼の護国寺近くの家を訪ねても不在で、帰ってこない日もあると、母親も心配そうだった。学校で顔を見ない日も多くなった。やがてカオルちゃんに、「おそくなって、ごめんね」などと冗談にも口に出せなくなった。明るく何事にも屈託がなかったカオルちゃんの表情は暗くなりすっかり人が変わった。それでも、間もなくオカマは麻雀にハマってしまっていたことが分かった。授業にも出席せず、日がな一日雀荘に入りびたり徹夜も繰り返していた。煙草をくゆらせながら麻雀を打つ荒れた高校生になってしまった。幸い、勝負勘がよかったのか、彼は負けて借金をすることがなかったのは救いだった。時々彼の勝負の場に立ち会うこともできるようになっていたが、カオルちゃんに彼のそんな状況を知らせるには忍びなく、ユリと一緒に暫くは黙っていた。
4人が親しく楽しく遊んでいた時間は、わずか3、4カ月だったか。麻雀で荒れた生活が彼の身体を毀したのか、もともと病魔が巣くっていたのか知る由もなかったが、カオルちゃんを美樹克彦のヒット曲にあやかって冷やかしていた時間はあっという間に去った。オカマはわずか17年と9ヵ月の生涯を終えた。信じられない若い死だった。ボクとユリは、荒んでいたオカマのことをカオルちゃんに知らせなかったこと、最期に立ち会えず間に合わなかったことを、何度も病室で詫びた。「花はおそかった」とは話が違った。あべこべだった。「カオルちゃん、(伝えるのが)おそくなって、ごめん」と冗談ではなく、岡誠は本当に君が好きだったんだよ、と付け加えた。眼に涙を溜めながら落とさなかったカオルちゃんは、気丈にも静かに頷いていた。病院で別れてから、カオルちゃんともユリとも再び会うことはなかった。オカマがいたから4人のバランスが取れていたのだろう。一人が欠けて、糸が切れた。
この年の暮の第18回NHK紅白歌合戦に、美樹克彦は「花はおそかった」で初登場した。「かおるちゃん、おそくなって、ごめんね」と何度も繰り返す歌唱が空しく聞こえたのは言うまでもない。歌唱の最後のセリフを終え、美樹は涙を湛えながら、「バカヤロー!」と叫んだ。本当にオカマの奴はバカヤローだ、とボクも悔しくて泣いた…。司会の宮田輝が、「紅白の舞台でバカヤローと叫んだのは、美樹克彦さんが初めてです」と笑いを誘っていたが…。その後の楽曲で「バカヤロー!」を絶叫したのは1975年(昭和50)のNHK紅白歌合戦で歌唱した西城秀樹の「白い教会(チャペル)」だったのではないか。
先立っていった恋人や兄弟をモチーフにした歌謡曲の悲しい名曲はそれまでにも無いわけではない。1962年(昭和37)橋幸夫の「江梨子」は野菊を摘んで海辺の墓に飾った。1965年(昭和40)西郷輝彦の「涙をありがとう」では霧島つつじを墓標に捧げて「兄貴ッ!」と叫んだ。1966年(昭和41)の舟木一夫「絶唱」では、花嫁衣裳を着せて逝った小雪に、なぜ死んだと問いかけた。そしてこのテーマで最大のヒットとなったのは、青山和子の「愛と死をみつめて」(昭和39年)だろう。「まこ」と「みこ」の往復書簡が書籍となってベストセラーとなり、不治の病で先立つみこは、まこに詫びた手紙を遺して日本中が泣いた。しかし、死んでしまった恋人を偲び悔し涙を流しながら「バカヤロー!」と叫んで怒りを現したのは美樹克彦だけである。探し回ったクロッカスの花が臨終に間に合わなかった悔しさ、だけではなかっただろう。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫