その後、関西のカレッジ・フォークで人気グループだったウッディー・ウーの「今はもうだれも」をアップテンポでカバーしたことを契機に、「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守歌」「チャンピオン」「秋止符」「狂った果実」とヒット曲を連発した。ライブ活動とDJを続けたことが実を結んだのだ。
谷村の訃報を目にしたとき、まっさきに思い浮かんだのが「秋止符」だった。「秋止符」は、作詞・谷村新司、作曲・堀内孝雄の17枚目のシングルである。アリスの「別れ」をテーマにした他の曲は、どちらかというと逞しい男性のイメージが強く勇気が湧いてくるのだが、「秋止符」は、別れを悲しむ女性の心の傷がしみじみと伝わってくる。左利きの恋人の文字を右手でなぞる女性の諦めきれない恋心が描かれ、あの夏の日に何があったのだろうと聴くものは想像を掻き立てられ余韻が残こる。何よりも「終止符」と書かず「秋止符」という宛て字にしたタイトルも美しいメロディも見事だ。そして深まってゆく秋が一層彼女を切なくする。
秋は人恋しくなることを、いにしえの歌人たちも歌に残した。小倉百人一首のなかでは柿本人麻呂が「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」と詠んだが、まるで「秋止符」のヒロインの気持ちのようだ。
ヒットを連発した78年には日本武道館で3日間にわたり「アリス武道館ライブ’78~栄光への脱出~」を開催した。これは日本人アーティストとしては初めてだった。そして81年8月23日、北京の1万人が入る工人体育館でもコンサートを開催したのだ。前年の80年には「ガンダーラ」などのヒットで知られるゴダイゴも天津市で「第一回中日友好音楽祭」に出演したが、中国での単独コンサートはアリスが初めてだった。観客たちはコンサートに慣れておらず、静かに行儀よく座っているだけだったが、最前列に座っているメインゲストの鄧小平氏の前にギターをもって歩み寄ると、鄧小平氏が立ち上がり頭の上で拍手を始めた。そうすると会場の1万人が一斉に立ち上がり、日本でみるコンサートの盛り上がりになったという。さらに、03年中国でSARSが流行した時には撲滅コンサートを催し収益の一部を寄付した。翌年には、上海音楽学院から招聘され人材育成にも貢献するなど、中国との縁が深い。中国には、「井戸を掘った人を忘れない」ということわざがあるが、谷村の訃報は中国でも大きく扱われ、強面の外相、王毅氏からも哀悼の意が送られた。アリスは、日中友好の懸け橋にもなっていたのだ。
アリスの活動とともに谷村はソロ活動でも力を発揮した。山口百恵に提供した「いい日旅立ち」(78)やソロシングル「陽はまた昇る」(79)、「昴―すばる─」(80)などスケールの大きな曲がヒット。どちらかというと演歌の要素の強い堀内とは路線が離れ、81年11月の後楽園コンサート後、アリスの活動は休止することになったが、「解散」とは言わなかった。3人が還暦を迎えた2009年に再始動し、22年の50周年記念ライブでは、ここからスタートして10年続けようと誓ったばかりだった。
美意識の高い谷村は、療養中の姿を仲間にも見せようとしなかった。快復を信じていた矢先、突然訃報が飛び込んできたと、盟友のばんばひろふみはラジオで語っていた。谷村は輝いたまま「我は行く」とばかりに、空の彼方に逝ってしまった。しかし彼の遺した名曲は日本のみならず国境を越え中国でも愛され続けることだろう。
秋の夜長、アリスの一連の曲に耳を傾けてみたい。当時聴いたときとはまた違う感傷が湧いてくるかもしれない。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫