実はメンバーの年齢幅はせいぜい4~5歳。ほとんどボクと同世代だったことを知ったのは、本稿を書き始めてからだった。それだけに思い入れ激しく、クリスタルキングというグループのデビューまでの時間を思い描きながら、昔話が飛び出すのは年寄りの悪い癖と笑止くだされ。ボクは彼らメンバーとほぼ同時期に出版社に潜り込み右も左も分からぬまま雑誌編集の仕事に追われた。仕事は面白く夢中だったが、何くれとなく気を配ってくれたオーナー社長が、出会ってから9年後突然病に倒れた。脳梗塞だった。死ぬことは免れたが、51歳とまだ若い彼は左半身不随という悲劇に見舞われた。「大都会」が誕生した1979年のことだった。つまりクリスタルキングと同じように時を刻んでいるのだ。
会社は倒産か、解散か。そう多くの貯えがあるような会社ではない。社員全員が狼狽(うろた)えた。見限ってさっさと退社していくのもいた。このまま座して倒産を待つか、定期刊行物である雑誌を廃刊するか、悪い情報ばかりを言い触らして退職をにおわせておきながら、実は自分だけ生き残ろうとする年配社員もいた。断末魔、人の本性を見た。
喧々諤々の話し合いが日々続いていた。帰途、同僚と居酒屋に寄って再び三度同じ愚痴話を繰り返す。すると遠くから、あのハイトーンの、あ~~あ~~が聴こえきた。どこかの飲み屋のスピーカーからだろう。遠く澄んだ美声だった。それから堂々たる野太い声が歌った。聴きながらボクは思わず心の中で叫んでいた。果てしない夢を追い続けようじゃないか、いつか大空をかけめぐる日がくるんだ、この会社にとどまっていこうや、力を合わせればきっと笑える日が来るさ、裏切る奴は必ずいるけどな。大都会の片隅の居酒屋で酒を酌み交わしながら、「大都会」に耳を傾けていた。すると、リハビリの痛みに耐えながら毎日汗を流しているオーナー社長の顔が浮かんだ。その瞬間、涙がとめどなく流れた。
長崎県佐世保で生まれたクリスタルキングにとって、大都会とは福岡の博多の街だったと作詞者の一人でもある田中昌之は言っている。大都会といえば東京の高層ビル街が浮かぶが、そうではなかったのだ。そして「出だしの、あ~~あ~~は、博多の綺麗なお姉さんに何度もフラれた嘆きの声」とテレビのバラエティ番組で笑わせたり、「大都会」の出だしを引き取るように天童よしみが「川の流れのように」を歌い出しコメディ的CMがつくられたりした。
斯くも聴く者にとって、歌謡曲とは人生の決断を迫ることがあり、涙にも笑いにも誘うものなのである。
ムッシュ吉崎のパンチパーマは消えているが、ソロヴォーカリストとして現在もライブハウスでマイクを握り、ディナーショーの舞台にも立っていると聞く。田中昌之はほとんど白髪になったようだが、変わらずパーマのかかったロングヘアでライブ活動をしているという。
皆、70代半ばである。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫