角松敏生は81年にデビューし、シンガーソングライターとして活躍する傍ら、83年以降は、他アーティストへ楽曲の提供とそれに伴う音楽プロデューサー業も手掛けていた。その音楽性を評価したのが、同じ事務所に所属していた杏里だった。「オリビアを聴きながら」(77)でロサンゼルスで16歳でデビューした杏里は、海外のアーティストやミュージシャンとコラボレーションしながら、その歌唱力は評価されていたが、その後のヒットに恵まれていなかった。杏里はまだ無名だった角松に5枚目のアルバム、『Bi・Ki・Ni』(83年6月)で5曲のプロデュースを任せたのだ。その後「CAT’S EYE」は、アニメ「キャッツアイ」の主題歌となり大ヒット、続く「悲しみがとまらない」も大ヒットした。突き抜けるような杏里の歌唱力をさらに磨きをかけた角松のプロデュース曲だ。
杏里とそのアルバム『Bi・Ki・Ki』に憧れていたのが、中山だった。彼女は自ら角松にプロデュースを依頼した。角松は、彼の著書『モノローグ』(毎日新聞社)で語っているが、プロデュースをサービス業として解釈し、アーティスト本人が喜ぶ作品になるように力を貸すことで、その看板を張るのはあくまでもアーティストと考える姿勢だ。そして彼のプロデュースは厳しいことに定評があり、あの杏里も中山も泣かせてしまったという逸話もある。
角松は、まだ10代だった中山を大人っぽくみせようと思い作ったのが、「You’re My Only Shinin’ Star」だった。私は「You’re My Only Shinin’ Star」をBGMした友人の結婚式のキャンドルサービスで初めて聴いたが、新郎新婦のセンスの良さに感動した。そして次の年は結婚式の余興として4人で歌うことになった。歌ってみると難しい曲である。特に出だし。低音ながら歌詞を聴きとれるよう、しかも美しい響きにしなければいけない、おわりの「永遠に I love you」を感動的にと話し合いながら随分練習した。けれども中山美穂の艶っぽく、麗しく、優しい世界には到底及ばない。「You’re My Only Shinin’ Star」は88年の日本レコード大賞金賞に輝いた。
90年代になると、「一咲」「北山瑞穂」というペンネームや、「中山美穂」の名前でも作詞した楽曲をリリースしている。ペンネームの使い分けはどんな理由があったのだろうかと、ふと思う。しかし99年9月の「Adore」を最後に歌手活動からは一時休止した。そして結婚や出産、離婚など私生活の変転時期に入る。23年ぶりに東京2ケ所でコンサート活動を再開し、今年は全国19都市で、2025年のデビュー40周年はさらに多くの会場でコンサート活動の予定が入っていたというが、その矢先の訃報だった。
亡くなる直前の12月1日のビルボード横浜でのライブに行ったファンの方の投稿があったが、最後の曲が、「You’re My Only Shinin’ Star」だったという。「何度も歌っていますが、歌うたびにいろいろなことを思う曲です」とコメントしていたという。このときは、何を思いながら歌っていたのだろう。
優しく響く「永遠に I Love You」のフレーズが耳から離れない。空の星になって輝き続ける中山美穂を私は忘れない。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫