
80年代を代表するロックバンドを忘れていた。「チェッカーズ」である。80年に福岡県久留米市で結成され、83年(昭和58)9月にシングル「ギザギザハートの子守歌」でメジャーデビューした7人組のグループだ。ロックバンドというと厳つい男臭いグループが多い中で、彼らは悪ガキ少年のような可愛らしさを残していた。チェック柄の独創的な服と、前髪を少し出して被るキャスケット帽、ちょっとやんちゃ風なコーディネートは、当時の若者のファッションリーダーのような存在になった。そんな彼らに、デビュー時ついたキャッチコピーは「退屈退治」だった。80年デビューの松田聖子、田原俊彦、近藤真彦、82年デビューの中森明菜、小泉今日子、シブがき隊などアイドル全盛の時代の中にあって飽き足らない若者たちの心をつかんだのだろう。80代大いに活躍した「チェッカーズ」の音楽とその時代があったとことを懐かしく思い出している。
ボーカルの藤井郁弥(現・フミヤ)らの出身地でもある久留米市は明治、大正、昭和を代表する洋画家の青木繁、坂本繁二郎、古賀春江らの生誕地で、近年では、「上を向いて歩こう」の作曲家・中村八大、久留米市が生んだスーパースター松田聖子、歌手の家入レオ、歌手・俳優の石橋凌、女優の吉田羊、田中麗奈、藤吉久美子らを輩出した地である。音楽や演劇の分野で多くの著名人を世に送り出したことで「芸能の街・久留米」とも呼ばれているようだ。
そんな経緯もあり、久留米市では70年代からアマチュアバンドが盛んになり、ロックンロールや黒人音楽のドゥーワップを得意とするバンドが集まり週末ごとにダンスパーティが開かれていて、なかでも高校生の藤井はロックンロールのバンドのボーカルとして注目されていた。メンバーの就職や進学で藤井のマチュアバンドは解散や新結成を繰り返したのちに、「チェッカーズ」が結成された。そして故郷の久留米では、最もカッコいいドゥーワップ・グループとして知られるようになった。
リードボーカルの藤井郁弥(以下フミヤ)、ギター担当でリーダーの武内亨、サイドボーカルの高杢禎彦、ベースの大土井裕二、高音パートのボーカル、キーボードを担当する鶴久政治、ドラムスの徳永善也、サックス、ギター、フルートを担当する郁弥の弟、藤井尚之の7人だ。チェッカーズを結成した記念に、81年福岡で行われたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト九州地区大会に出場するとグランプリを受賞。本選大会においても、ジュニア部門で最優秀賞を受賞し、すぐにプロデビューへの話が持ち上がった。しかしデビューは全員が高校卒業してからと保留になったが、先に卒業したフミヤは、全メンバーの卒業を待つ1年間国鉄(日本国有鉄道)に就職している。国鉄に入ると、87年の民営化に向け反対運動の嵐の中で、国労に入る羽目になり、反対運動に駆り出され機動隊に突っ込んでいったこともあるとか。デビュー時の姿を思うと想像もできない。
83年3月遂に7人で上京することになった。ヤマハ音楽振興会の寮に入りデビューに向けてレッスンを重ね、半年後の9月21日「ギザギザハートの子守歌」(作詞・康珍化、曲・編 芹澤廣明)でポニーキャニオンからレコードデビューしたのである。メンバーがレッスンを重ねている間、裏では、80年代前半を席巻したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を手がけたスタッフらによってビジュアル面が仕組まれていた。YMOの「テクノカット」を考案したヘアアーティスト、YMOのジャケットを手がけたアートディレクターなど、最先端の布陣だった。「ギザギザハートの子守歌」のジャケットを見ると、確かにYMOに似た雰囲気がある。しっかりビジュアルもマーケティングがなされていたのだ。
残念ながら「ギザギザハートの子守歌」はそれほどヒットしなかった。ところが84年1月24日リリースのセカンドシングル「涙のリクエスト」(作詞・売野雅勇、曲・編 芹澤廣明)で一躍ブレイクした。「なみだーの、リクエスト……さいごーの、リクエスト」と歌うフミヤの歌声は心地良く、耳について離れなくなる曲だ。「リクエスト」「コイン」「トランジスタ」「金のロケット」などアメリカンポップス的なワードが並べられているのは、作詞家の売野が、映画『アメリカン・グラフィティ』(73)を観てイメージがわいてきたものだった。映画にラジオDJが出てくるが、そこから「ミッドナイトDJ」が出て来たという。売野は、コピーライターやファッション誌の編集長を経て、中森明菜のセカンドシングル「少女A」(82)のヒットから作詞活動に専念した。やんちゃだけど、繊細な心を持ち傷つきやすい少年のイメージのチェッカーズが、売野の詞の世界観とぴったりハマっていた。
