高度経済には成長期には、新婚旅行に出かけるカップルの見送りの人で駅のホームは大変な混雑ぶりであった。
見送り客たちは万歳三唱で新婚カップルを送り出し、新郎新婦は、一般の乗客たちの注目を浴びることになり、どこか恥ずかし気であった。発車ベルがどれだけ待ち遠しかったことか。
当時は服装もカジュアルなスタイルというより、新郎はスーツ姿、新婦は明るい色のスーツに皇族の妃殿下がたの影響なのか帽子を着用。白い手袋をした手にはブーケ、そしてボックス型のスーツケース。
行き先は箱根や熱海、伊東などの温泉宿で、2泊3日程度の旅行だった。
また、宮崎の青島あたりも人気の旅行先で昭和42年から昭和48年ころまで、京都もしくは大阪から宮崎までの新婚旅行客向けの臨時急行列車「ことぶき」が大安吉日に運行されている。
車窓風景を眺めながらの列車の旅は、新婚カップルにはすてきな思い出になっただろう。
新婚旅行が始まった
~高度成長期の新郎新婦は列車に乗って~
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2018年7月1日号より
荷風の小説に登場する「新婚旅行」
新婚旅行はいつごろから始まり、いつごろから一般化したのだろう。
坂本龍馬が新婚旅行を始めたという説があるが、幕末に「新婚旅行」という言葉はなかったし、本人にも、その意識はなかっただろう。
文学作品に「新婚旅行」が登場する早い例に、大正七年( 一九一八)に発表された永井荷風の小説『おかめ笹』がある。
東京に住む高名な日本画家の息子が、見合いをして結婚する。そのあと新妻と箱根に新婚旅行に出かける。
荷風は、はっきり「新婚旅行」と書いている。大正時代のなかば、ようやく世に新婚旅行が登場してきている。ただ、この新婚夫婦は、夫が前述のように高名な画家の息子、妻は足利家の家令をつとめた名家の出。どちらも富裕な家の子供だから、一般に先がけて新婚旅行が出来たと言える。庶民のあいだで新婚旅行が広まるのはまだずっと先。
荷風は『おかめ笹』のなかで、若い二人の結婚式の次第を丁寧に書き込んでいる。
二人は、まず日比谷大神宮(関東大震災後に現在の千代田区富士見町に移転、東京大神宮に改称) で神前結婚式を行なう。そのあと築地の西洋料理店、精養軒で披露宴を開き、そして新婚旅行へ出かける。
神前結婚、披露宴、新婚旅行、という現在の形が、大正のなかばに生まれている。それまでは、結婚式も披露宴も、新郎の家で親類縁者を集めて行なうのが普通だった。それが大正デモグラシーの影響もあり、若い新婚夫婦が「家」の格式にとらわれなくなり、家の外へ出る形が広まっていった。
『おかめ笹』の二人は日比谷大神宮で神前結婚をするが、この神社は明治三十年頃から東京で結婚式場として有名になった。このあと、神田明神や築地本願寺も、それに倣い、結婚式場を作ってゆく。
神社での結婚式のあと、家の外のレストランや料亭に披露宴の会場を設けるのも、この頃から行われてゆき、東京では日比谷大神宮に近い帝国ホテルや東京会館、築地の精養軒がその代表的な披露宴会場になった。
谷崎潤一郎の『細雪』は、昭和十年代を舞台にしている。蒔岡家の次女、幸子は昭和十五年の夏、夫の貞之助と河口湖畔に旧婚旅行に出かける。そこで二人は自分たちの新婚旅行のことを思い出す。
「夫婦は云わず語らずのうちに、もう十何年前になる新婚旅行当時の気分に復(かえ)っていた。そう云えばあの時は(箱根の)宮の下のフジャホテルに泊り、翌日蔗の湖畔をドライブしたりした(略)」
荷風の『おかめ笹』より少しあと、大正末期のことと思われる。『おかめ笹』の新婚夫婦と同じように、幸子と貞之助も芦屋に住む富裕な階層だから、一般には先がけて、新婚旅行を楽しむことが出来たのだろう。
箱根の高級ホテルである富士屋ホテルに泊り、芦の湖畔をドライブしているのだから、そうとう贅沢だ。