注文仕立ての服は一生もの
戦後もオーダーメイドの時代は続いてゆく。
昭和二十年、北九州の八幡市(現在の北九州市)に生まれた芥川賞作家、村田喜代子の自伝的小説『八幡炎炎記』(平凡社、二〇一五年)には、腕のいい仕立職人が出てくる。十六歳の時に洋服店に入り、修業する。戦時中、親方の奥さんと関係し、二人で駆落ち、八幡の町で「テーラー」を開く。
八幡は戦時中、東洋一と言われた日本製鐡八幡製鐵所があり、また隣りの小倉には陸軍造兵廠があり、「男の町」だった。だから「高級スーツや軍服の注文がまったく途絶えることはない」。
戦争が終っても製鐵所の活気は消えることはない。八幡は「鉄都」として活況を呈する。そのため「紳士服の受注も伸びた」「顧客のネーム入りの人体が仕事場の奥には、林のように並んでいた」。既製服が当たり前になってしまった現代では考えられない光景である。
オーダーメイドは既製服に比べれば高価だからそう簡単に何着も作ることは出来ない。
昭和三十二年の東宝映画に『新しい背広』(筧正典監督)という佳品がある。田宮虎彦原作。小林桂樹、八千草薫主演。愛し合っている恋人たちが、生活に余裕がなくなかなか結婚出来ないでいる。二人のつましい青春を愛情こめて描いている。
小林桂樹は、戦争で両親を失くしたあと、弟(久保明)を親代わりになって育ててきた。建築事務所で働いている。暮しは楽ではない。高校生の弟は勉強がよく出来る。なんとか大学にやりたいが、そのためには恋人、八千草薫との結婚を延ばさなければならない。弟と恋人の板挟みになって悩む。
この主人公の背広は、もう何年も着ているのだろう。相当、ボロになっている。肘が抜けてしまっている。新しい背広を買いたいにも、大学に行きたい弟の学費のことを考えると我慢しなければならない。
恋人の八千草薫も父親を戦争で失っている。形見の背広がある。オーダーメイドだからしっかりしている。その父の背広を恋人に贈る。微笑ましい。
注文で仕立てた服は一生ものだから、こういうことが出来るのだろう。
銀座の老舗洋服店、米田屋の創業者の孫になる柴田和子さんの『銀座の米田屋洋服店』(東京経済、一九九二年)によれば、既製服が主流になるのは、昭和四十年代以降だという。確かに私自身、昭和四十四年に社会人になった時、〝新しい背広〟は既製服だった。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を鉄道が走る』(交通図書賞)『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京下町歩き』『成瀬巳喜男 映画の面影』『映画の戦後』『東京抒情』『「男はつらいよ」を旅する』『老いの荷風』『映画の中にある如く』『「それでもなお」の文学』『あの映画に、この鉄道』『東京は遠かった 改めて読む松本清張』『台湾、ローカル線、そして荷風』など多数の著書がある。