戦後、朝日新聞連載の小説『青い山脈』が映画化され大ブームを起こし”百万人の作家”といわれた流行作家、石坂洋次郎の小説にも学生たちのアルバイトが多く描かれている。
『陽のあたる坂道』の女子大生は家庭教師をやり『雨の中に消えて』の犬学生カップルは、選挙カーに乗り込み演説までしている。新聞社や出版社で、お茶くみ、ガリ版印刷など雑用をこなす給仕のようなバイトもあった。家庭教師は時給も桁外れに高い、効率のいいバイトだった。
学費や生活費のために、アルバイトは学生にとって大切な収入源だったのだ。
また、職に就くことなく、芝居や音楽や文筆で身を立てようとする若者にとっても、バイトは必要だった。
平成、令和と時代が移っても、アルバイトをする学生は多いがその目的は、小遣い稼ぎが主流のようである。
「アルバイト」は戦後にはじまった
生活難大学生の学費と生活費稼ぎ
文=川本三郎
「昭和の風景 昭和の町」 2019年7月1日号
学業よりバイトに忙しい井上ひさし
学生のアルバイトがさかんになったのは、戦後の混乱期から。生活難が大学生を襲い、多くの学生が学費稼ぎ、生活費稼ぎのためにアルバイトをせざるを得なかった。
そのアルバイトもなかなかいいものがなくキャンデー売りや紙芝居までさまざまあった。
昭和九年生まれの作家、劇作家の井上ひさしは、山形県から東京に出て、上智大学の学生になった時、実にさまざまなアルバイトをしている。
学生時代を描いた小説『モッキンポット師の後始末』によると、大学に入り、寮生活が始まった「ぼく」は、生活のために、大学の授業より、アルバイトのほうが忙しくなる。といってもいまと違って、アルバイトの口が多いわけではない。仕事を探すのにひと苦労する。
「ぼく」がまず、するのは、草野球の「臨時要員」。ある日、神宮外苑に散歩に出かけた軟式野球場でキャッチボールをするおじさんたちを眺めていた。そこにボールがころがってきた。ボールを拾い、おじさんに投げ返した。「ぼく」は中学と高校で野球をしていたので、すごい球を投げた。おじさんは驚いて言った。自分たちは寿司屋のチームだが、ピッチャーがまだ来ないで困っている。代わりに投げてくれないか。もちろん金は払う。
かくて草野球での「ぼく」のバイトが始まった。
「野球臨時要員業はうまく行った。思った通り重宝がられた。四月は三十八試合に出場、二万円以上稼いだ。学生服を新調した。靴底も張り替えた。五月は四十二試合に出場、商売道具のグラヴを買った。映画を十数本見た」。
草野球のアルバイトとは面白い。もっとも梅雨に入ると、野球の試合が少なくなってしまうのだが。
そのあと「ぼく」は、浅草のストリップ劇場の文芸部員(実質は雑用係)、養鶏場のひよこのオス、メスの鑑別、倉庫番、清掃係など、さまざまなアルバイトを転々とする。ついには、学生たちと商売を始める。ある放送局の食堂でパンの耳を捨てているのに目をつけ、それを貰い受け、パン粉を作り、天ぷら屋やとんかつ屋に売る。アイデアである。もっともこれも配達が面倒になって挫折してしまうのだが。
昭和三十年代はじめの話である。「ぼく」は学業よりアルバイトに忙しかった。もしかしたら、大学の授業よりアルバイトのほうが楽しかったかもしれない。